BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」山根俊樹インタビュー〈第2章〉華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて

2026.08.03

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先輩たちが撮影の現場から離れ、山根俊樹は新たな道を大会に求めた。世界を驚かせるトリックを決め、大舞台で実力を証明する。しかし、その先に彼が選んだのは、誰かに評価される滑りではなく、自らのスタイルを映像や写真で表現する、原点への回帰だった。
 
※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
 
 
EPISODE 2

華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて

2009年、高校1年の夏。3年間に渡って足繁く通った俊樹のホームゲレンデ・BIGAIR福岡が、およそ10年の歴史に幕を下ろした。
 
「BIGAIR福岡が7月に潰れたんですよね。ちょうどそのタイミングで、1ヶ月半くらいスイスのサースフェーに連れて行ってもらうことになったんです。そのときにスピンのレベルが上がりました。720や900までは大体できるようになって、1080にトライできるくらいのレベルまで持っていったんです」
 
中学時代、室内ゲレンデの小規模なキッカーでは練習していたものの、シーズン中はバックカントリーやストリートでの撮影がメインだったため、ビッグキッカーで練習する機会にはあまり恵まれていなかった。それだけに、サースフェーで習得したスピントリックは、今後のバックカントリーやパークでの撮影で活かされることは間違いない。
 
そう、このときまでは映像や写真に記録として残すための高回転スピンだったはずだ。
 
「高校1年の冬は順調に撮影が進みました。その前の年に散々悩んだからですかね。同じようなアイテムでも、カメラの撮り方だったり自分のスタイル次第では(フッテージとして)使えるじゃないですか。そういうのがわかってきたからか、ストリートでも先輩たちとは違う技が思い浮かんだり、自分でやりたい滑りっていうのがいろいろ出てきたんですよ。徐々に撮影が面白くなってきてたんですけど次の冬、一番恐れていたことが起こって……。雄蔵さんたちがコモらなくなったんです。今まではずっと先輩たちについていってたからよかったけど、これからは中学3年のとき経験したように、ロケハンや撮影だけでなくスノーボードのすべてに関して、全部自分で考えていかなきゃいけないんだって。そう思ったんですよね。そのとき、まず何ができるかって考えたときに、“白い恋人”が思い浮かびました」
 
それはSTARILL FILMの解散を意味していた。そして俊樹が言う「白い恋人」とは、北海道・札幌の大通公園で2009年から開催されている「白い恋人 PARK AIR」のことである。当時はTOYOTA BIG AIR(以下TBA)の予々選を兼ねていたストレートジャンプの大会であり、ビッグエア国際大会の舞台を目指して全国から猛者たちが集結していた。
 
TBAのことが頭をよぎった高校2年の秋。2010年10月、着地にエアマットを敷き詰めたジャンプ練習施設・福岡キングスがオープン。これは偶然なのか、それとも必然だったのか。どちらにせよ、俊樹のストレートジャンプの才能が開花することになる。
 
「高校2年の冬に初めて白い恋人に出たんですけど、予選で負けました。みんなバックサイド900をやってて、オレも同じ技をやったんですけどダメで。大会が終わって、ジャッジの松井(克師)さんが控室に来たとき、“俊樹のトリックはカッコよかったんだけど、高さが足りなかった。だから他のライダーを選出したんだ。これからも頑張れよ”って言われたんですよね。正直なところ、申し訳ないけどそうやって言われたことがマジでムカついて。でも、それで火がついたんですよね。来年は絶対に白い恋人で優勝してTBAに出てやるんだっていう、明確な目標ができました」
 
これまで撮影に取り組んできたうえで、いち表現者としての苦悩は幾度となくあったが、自らの滑りに点数をつけられて負けるという敗北感は初めて味わった。小学校時代、内気な少年だった俊樹は6年間の空手を通してメンタルが鍛えられ、中学から高校1年にかけて大人とともに対等に撮影活動を行ってきたことで創造力や発想力が養われ、それが自信につながっていたのだろう。
 
だからこそ、悔しかった。
 
「どの技が通じて、どんな練習が必要なのかを考えて、日本と海外のレベルをグラフ化したうえで、自分の立ち位置がどこなのかを把握するんです。そうしたら、“あれ、意外といけるかも”って確信できたので、めちゃくちゃ滑り込みました。身体の調子もよくて、順調にスキルアップしていった感じですね」
 
小学校時代、父は空手に取り組んでいる俊樹に対してものすごく厳しかったそうだ。内気だった息子を強くするために、常にダメ出しを重ねてきた。もちろん、それは愛情の裏返し。しかし俊樹からすれば、またイヤなことを言われるという恐怖心でもあったからこそ、自然と能動的に自らの欠点を考える習慣が身についた。
 
「滑り終わった帰り道とか、その日のことを振り返りながら気になるところを探して、それを突き詰めていくのが習慣化してるんです。だから、自分のダメなところを探しては、それをいい部分に塗り替えていこうっていうクセがついてるんですかね。オヤジに言われるのは確かにイヤでしたけど、客観的に自分のダメな部分を突きつけてくれるわけだから、それを改善することを前提に考えれば伸びしろしかないじゃないですか」
 
こうして培われていった自己分析力。
 
高校3年で挑んだ2度目のPARK AIRは、5日間に分けて行われた最終日のグループを1位通過し、翌日に札幌ドームで行われるTBAの日本人最終予選にコマを進めた。ひとり2本のジャンプからベストポイントで争われ、俊樹は1本目でバックサイド・ダブルコーク1080を完璧に決めて1位となり、本戦出場を決めたのだ。まさに有言実行。16名で争われた本戦予選では8名がノックダウンのトーナメントに進出できたのだが、俊樹は惜しくも9位で涙を呑む結果に。
 
そして翌年。2013年2月24日、山根俊樹という名が全国に……いや、世界にまで知れ渡ることになる。翌年に行われるソチ五輪スロープスタイルで金メダルを獲得することになるセイジ・コッツェンバーグ、そして、この前年に中国・北京で開催されたAIR+STYLEで、当時としては世界で3人目の成功者となったバックサイド・トリプルコーク1440を決めて優勝していた角野友基ら強豪ライダーを抑えての快挙。18年という歴史を誇るTBA史上、日本人最高位となる準優勝を果たしたのだ。
 
しかも、トーナメントの決勝戦で放ったトリックはスイッチバックサイド・トリプルコーク1440。少し回転が足りず、リカバリーの際にボードがドライブしてしまったものの、グラブ時間の長いインディを入れるなど完成度の高さを示していた。この時点で同トリックを成功させていたのは、世界中を見渡してもトースタイン・ホーグモただひとり。それほどの超大技だったからこそ、国内にとどまらず世界中に衝撃を与えたわけだ。
 
「こうやって結果を残してから、もっと大会に出て名を上げようぜ!みたいなことを言ってくる人が増えたんです。そうやって言われるのは表面的にはうれしいんですけど、本音を言わせてもらえれば“うるせーよ”って感じでした。大会で目立ってほしいとか、もっと頑張れって言われるたびに、それって人のためにスノーボードをするってことだから、だとしたら、なんか違うんじゃないかって思ったんですよね。TBAでの結果は、自分が世に出るキッカケになったことは間違いないし、すごいプラスになりましたけど、その頃からスノーボードに対する考え方がさらに変わっていきました」
 
「オレはこの土俵で戦っていくのか、それとも、もっとワガママなスノーボードを追究していくのか。SAJ(全日本スキー連盟)の大会には一切出てなかったんですけど、オリンピックの表彰台に立ってる姿と、ビデオの中でMFM(マーク・フランク・モントーヤ)とかが洋服をパーッと引っ張って胸をはだけさせながら“どうよ”って言ってる姿だったら、オレはどっちになりたいのかを真剣に考えたんですよね。そのときに、MFMのほうがカッコいいってオレは思ったんです。もちろん、オリンピックとか大会を否定するつもりはまったくないけど、競技っていう世界があるからこそスノーボードで自己表現できるシーンが際立っているんだってことを胸に刻んで、オレはこっちの世界で生きていこうって決めました。最後まで絶対に裏切らないのは、こっちの空気感だなって思ったから」
 
TBA以外にも、AIRMIXなど当時国内で行われていた主要大会にはすべて出場した。その真の目的は名前を売ること。ここには、ある種の計算があった。
 
「いろんな大会に出て名前を売ることで、メーカーの目にとまるじゃないですか。そうすることで、自分のやりたい撮影ができるようになるかもしれないと思ったんです。それなりの成績を残した結果、中井(孝治)くんがSALOMONに来いよって声をかけてくれました。チームを担当していた(田原)ライオさんも“お前がやりたいんだったらいいよ”って言ってくれたんです。撮影活動を中心にやりたいという意向を伝えたうえで契約して、シューティングに参加しました。そこからまた、撮影に対する熱意が一気に高まっていきましたね」
 
中学時代から撮影活動に明け暮れ、ライディングで自己表現する面白さや難しさを体感してきた。その後、競技に転向して世界トップレベルで通用することを証明。そのうえで、滑りで己を表現するスノーボードが本質であると確信したのだ。
 
「フィールドが小さくてもリアルな世界ってあるじゃないですか。それがオレにとっては撮影でした。だからこそ、映像や写真を通じての表現を突き詰めていきたい」

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

 
 
CONTENTS

Tadashi Fuse

EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
EPISODE 3 新たなるステージへ
EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
 

Shuhei Sato

EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
 

Toshiki Yamane

EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▶EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 

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