BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」山根俊樹インタビュー〈第1章〉鮮烈すぎる中学デビュー

2026.07.31

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※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
 
 
FEATURES

競技から学んだ自由を求めて戦うスタイル

山根俊樹

 
2013年2月。国際的にはまったくの無名だった19歳の若者は、当時世界中を見渡してもたったひとりしか成功させたことがなかった超大技を、札幌ドームの大舞台で繰り出した。転倒はしなかったものの着地は乱れてしまったのだが、無謀なチャレンジではなく完璧にスピンを操っていたことに驚きを隠せなかった。この男が本章の主人公、山根俊樹である。
 
彼はなぜ、オリンピックを含めた国際大会の舞台を目指さなかったのか。雪に恵まれていない福岡で生まれ育ちながらも、室内ゲレンデやジャンプ練習施設といったトリックを習得するうえでの好環境を有していただけに、どうして競技志向のスノーボード人生を歩まなかったのかがずっと気になっていた。
 
そんな俊樹と語り合って見えてきた、容姿からは想像できないほどの強すぎる信念。そこに、彼のスタイルが凝縮されていた。
 
 
EPISODE 1

鮮烈すぎる中学デビュー

 

 
「それまでやってた空手とは、まったくの別物でした。いかに相手を倒すかってことだけを毎日のように考えてたんですけど、いきなり“このゲレンデを自由に滑っていいんだぜ”って言われてるような気がして。こうした感覚を味わったのは初めてだったから、すぐにハマりましたね」
 
小学6年のとき、同じ空手道場に通っていた大人たちに連れて行ってもらった雪山で、俊樹はスノーボードと出会った。福岡で生まれ育ち、極真空手に打ち込んできた少年にとって、ゲレンデはとてもまぶしく新鮮な空間だったのだろう。
 
「その頃は自分を表に出せるタイプじゃなかったんですけど、滑りから帰ってきて“めっちゃ楽しかった!”と両親に伝えて、家族で一緒にスノーボードを始めようって提案したんです。テンションが上がりすぎてたみたいで、次の日に風邪をひいちゃって(笑)。それでスノーボードを始めることになり、月に1回くらい広島まで滑りに行くようになりました。そのシーズンは3回くらい滑ってターンができるようになった感じでしたね」
 
幼少期の俊樹は気が弱くて泣き虫だったそうだ。それを見かねた父が空手を勧めてくれ、小学校6年間はハードな環境に身を投じていた。平日は放課後に毎日、週末になると志の高い大人たちに混ざって稽古するなど、血の滲むような努力を重ねてきた。
 
「中学生になるタイミングだったので、空手をやめてスノーボードがやりたいと両親に相談しました。そうしたら、親戚のおじさんが当時福岡にあった室内ゲレンデの存在を教えてくれたんです。そのおじさんはけっこうスノーボードが好きだったみたいで、DVDを貸してくれたり、いろんなことを教えてくれましたね。中学に入学したらすぐに、そのBIGAIR福岡(現在は廃業)っていう室内ゲレンデに通うようになったんです」
 
6年間に渡って休むことなく空手に打ち込む壮絶な生活を見てきたからこそ、さらに、内気だった少年が空手を通じて自らの意志でやりたいスポーツに出会ったことがうれしかったのだろう。空手同様に、両親は全面的に息子をサポートした。BIGAIR福岡ではインストラクターをつけて練習に励むなど、ほぼ毎日のように通い詰めることになる。
 
「1ヶ月くらい滑り込んだ頃にジャンプの大会がBIGAIR福岡であったんです。ビギナークラスに出たら準優勝でした。そのときに(新原)雄蔵さんと、今ショップでお世話になってるACHARMの真鍋さんと出会って。そこからすべてが始まった感じですね」
 
当時、福岡を代表するライダーとして名を馳せていた新原氏との出会いが、俊樹のスノーボード人生を大きく変えることになる。
 
この年の夏、俊樹は新原氏の引率でニュージーランドへ渡った。布施忠と西田崇がプロデュースしていたMAYB’EMというブランドが主催するキャンプに、1ヶ月ほど参加することになったのだ。
 
「BIGAIR福岡のジャンプ台で少し飛べるようになってたくらいで、フリーライディングの意味すらわかってないレベルでした。雄蔵さんと一緒に滑ってたんですけど、撮影があるといなくなっちゃってたので、そのときはキャンプのコーチで来ていた(高橋)博美ちゃんや(安立)風太くんに、けっこう細かいところまで教えてもらえたんです。小さめのキッカーを飛びながら流してたんですけど、ターンができてないことを指摘してもらって、滑りの基礎を全部叩き込んでもらいました」
 
夏休みを利用してニュージーランドで培った滑走力を活かし、学校帰りにはBIGAIR福岡に通う日々。まともなフリーライディングの経験がない状態でもビギナークラスとはいえジャンプの大会で準優勝していた俊樹だけに、ベーススキルが培われたことで加速度的に上達していった。
 
「雄蔵さんたちはシーズンに入ると北海道をベースにしていて、オレが中学1年のときはニセコにコモってました。でも、いきなりお前はコモるなって言われてたんですよ。まずは冬休みを利用してニセコで滑って力をつけてから、春休みになったらコモりに来いよって。言われたとおり、クリスマスくらいから冬休みはニセコでみんなと滑って、休み明けは学校に通いながらBIGAIR福岡で練習して、そして春休みは3週間くらいニセコにコモりました。そのときから撮影に参加するようになったんです。よくわからずにスコップとかいろいろ揃えて、キッカーの作り方とかもまったく知識がなかったから、そういうのを全部教えてもら
いました」
 
驚いたことに、スノーボードを始めて実質1年目の中学1年時、すでに大人たちに混ざってストリートの撮影に参加していた。春先だったためにストリートの撮影だったのだろうが、そこは滑るために用意されたフィールドではなく、すべては自分たちの創造力を活かして環境を整えるところから始まる。刺激が強すぎる撮影デビューだったに違いない。
 
さらに、滑り以外にもあらゆることを吸収していった。
 
「ニセコに入ってから3日くらい経ったとき、撮影中に雄蔵さんが腰を痛めちゃったんですよ。それで入院することになったんですけど、家でオレがひとりになっちゃうから、雄蔵さんの仲間が来てくれてオレの面倒を見てくれたんです。そのときスノーボードに対する考え方をいろいろ教えてもらったり、それ以来、自立しなきゃいけないってことを考えながら生活するようになりましたね」
 
「スタートから濃かった」と俊樹は振り返るが、翌シーズンからはその濃度がさらに高まっていくことに。
 
「中学2年からシーズン中はコモるために、冬は学校を休むことにしたんです。学校側から課題をもらって滑り終わったらそれをやってました。冬休みと春休みの宿題も出してもらう感じでしたね」
 
その年の夏、新原氏を含む先輩ライダーとともに再び訪れたニュージーランドでの滑りが認められ、初となるスポンサーを獲得していた。加えて、理解ある両親からの多大なるサポートがあったからこそ、こうした好環境を得ることで、ますますスノーボードに邁進できる態勢が整っていった。
 
「中学2年の冬は富良野にコモりました。その頃はショーン・ホワイトがトリノ五輪で金メダルを獲ったり、ケビン・ピアスがTOYOTA BIG AIRで優勝したり、オリンピックとか大会で活躍してるライダーたちがカッコいいと思ってたんですよね。でも、撮影中に先輩たちが話してた会話が耳に入ってきたんです。オレが誰かと話してるときに、別の先輩たちが話してた会話だったからうろ覚えなんですけど、“やっぱこれがスノーボードだよな”みたいな話をしてたんです。なんか、オレが描いていた(大会で勝ったり名声を得て)上り詰めていこうとするスノーボードと、先輩たちがやってるスノーボードって、全然違うと思ったんですよね。子供なりに、そういうマインドがカッコいいと思った。本格的にコモり始めたその年から、そういう精神が出てきました」
 
新原氏を筆頭に活動していたSTARILL FILMというムービークルーが俊樹の原点である。すでに解散しており情報は少ないながらも、オンライン上に彼らクルーとしてのポリシーが記されていた。
 
「STARILL FILMは九州・福岡で誕生し、冬は北海道をメインに撮影しています。STARILL FILMが他のプロダクションと違うところですが、それは“完全自主制作”ということです。スポンサーが見つからなかったということもあり、自分たちだけでどこまでできるのか試そうと思ったのです。それと自分たちの“資質”に一度は懸けてみたいと思ったからです。それは表現者として当然の欲求であると信じています。(以下割愛)」
 
誰のためにでもなく、自分のために滑る。周りからどう見られるかではなく、己のスタイルを貫く。そういうスノーボードが俊樹の根底にあるのだ。
 
中学3年の冬は受験のため、撮影に打ち込める時間は限られた。しかも、そのシーズンのSTARILL FILMの撮影テーマはDIY。ロケーションからすべてを自分で考え、自らの滑りを立証しろという難題を突きつけられていた。
 
「中学2年のときまでは山でもストリートでも誰かについていって、それで成り立ってたんですよ。でも3年のときはそうもいかなくて。先輩たちは長くスノーボードをやってるからこそ、いろんなアイデアがあるじゃないですか。オレは全然納得いくような滑りができなかったりメイクできないとか、思いきり壁にぶつかって……。滑り込んでるのに全然上手くいかなかったから、どうしていいかまったくわからず八方塞がり
だった。だから、めっちゃ落ち込んでました」
 
そのまま雪解けは進み、新緑が萌え広がる頃。新原氏は俊樹の父にこう話していたそうだ。「俊樹は今年、課題を見つけることができた有意義なシーズンになりましたよ」と。例えばキッカーでのスピントリックであれば、回転数を上げることやグラブする位置の変更、回転軸を加えるなど、ステップアップが明確である。しかし、バックカントリーやストリートにおいて、“自分らしさ”を求められたとき、俊樹は何もできなかった。だが、シーズンを終えてからその意味に気づくことができたのだ。
 
「何に悩んでたのかわかってからは、スノーボードに対する考え方がより深くなっていき、どうすれば上手くいくようにできるかを考えられるようになったんです」
 
山根俊樹、15歳。プロスノーボーダーとして、表現者として、大きな一歩を踏み出した瞬間だった。

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

 
 
CONTENTS

Tadashi Fuse

EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
EPISODE 3 新たなるステージへ
EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
 

Shuhei Sato

EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
 

Toshiki Yamane

▶EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▷EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 

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