BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」佐藤秀平インタビュー〈第3章〉プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力

2026.07.29

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仲間たちに背中を押され、再びオリンピックを目指す覚悟を決めた佐藤秀平。競技に集中するため、撮影を中心としたプロ活動から距離を置き、ひたすらハーフパイプと向き合った。
 
その時間は、STONPの仲間たちをうらやましく眺める日々でもあった。しかし、プロとしての活動と引き換えに積み重ねた膨大な滑走量は、のちのバックカントリーにもつながる確かなライディングスキルを彼にもたらしていく。

 
※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
 
 
EPISODE 3

プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力

2014年にロシアで開催されるソチ五輪を目指す秀平。5回目を数えるオリンピックに向けてトリックの高難度化が急がれ、競技レベルは年々上がり続けていた。それに伴って競技人口の低年齢化が進んでいたわけだが、26歳で初となる日本代表の座に挑む秀平は、周りのライバルに比べても決して若くはなかった。
 
平野歩夢や平岡卓ら10代の若手が台頭してくる中、秀平はこれまでの遅れを取り戻すべく身体にムチを打ちながら己を追い込み、2012-13シーズン、ついにナショナルチーム入りを果たした。
 
「ナショナルチームに入った初戦、ニュージーランドのワールドカップで2位になったんですよ。スペインのワールドカップでも3位に入れたこともあって、そのシーズンはFISのワールドツアーランキングで3位になって表彰されました。その年の全日本(選手権)はオリンピックシーズンに向けた最後の大会ということで重要だったから、歩夢も含めてソチを目指す日本人ライダーは全員出てたんですよね。マスコミがたくさん駆けつけてかなり注目されてる大会だったんですけど、そこで優勝することできた。このシーズンは、かなりいい感じで終われました」
 
高校卒業後に帰国してから6シーズンの月日が流れ、ようやくオリンピックの舞台が射程圏内に入った。2010年以降はK FILMSを通じて笑顔の秀平を観ることはできていたものの、プロ活動を犠牲にしてパイプのトレーニングに専念していたため、彼のスノーボーダーとしてのバランスは崩れかけていたのかもしれない。
 
幼少期から“遊び”と“大会”の間に明確な線引きはなく、それが秀平にとってのスノーボードだった。“遊び”の延長線上にフリーライディングという名の撮影活動がプロとしての職務として存在し、カズが中心となって日本のスノーボードシーンに革命を起こすべく立ち上げられたSTONPが、まさしくその受け皿だった。その中身については、小誌ISSUE 3「スノーボードと仲間と絆」で40ページ強に渡って触れているので割愛させていただくが、瞬く間に日本のシーンを席巻し、その波は世界中にまで押し寄せた。
 
「STONPが始まってからはオリンピック出場を目指していたので、撮影自体があまりできなかったんです。だから、クルーを見ているとうらやましかった……」
 
ISSUE 3内で秀平が語っている言葉を抜粋したわけだが、幼少期から同じ価値観で育ってきたスノーボーダーたちはみな、STONPクルーの一員として撮影活動に勤しんでいた。
 
「オレは指をくわえて見てることしかできませんでした」
 
シーズン中は大会の転戦を余儀なくされていたため、バックカントリーでの本格的な撮影に参加することはできなかった。だが2013年夏、アメリカ・オレゴン州マウントフッドで開催されているサマーキャンプにSTONPクルーとして訪れ、パイプのトレーニングに明け暮れる傍らで秀平もパークセッションに参加。同年にリリースされた3作目『STONP OR DIE 2』から出演を果たしている。
 
「もしもあのときソチ(五輪)を目指さないで、みんなと一緒に撮影を中心としたプロ活動にシフトしてたら、今のオレはなかったと思うんですよ。ナショナルチームに入る前からかなり練習をしていて、これまで経験したことがないくらい海外の大会を転戦し、こんなに滑ったことがないってくらい滑りまくって、オリンピックを目指すのがイヤになるほど辛いこともあった。でも、自分で言うのもおかしいけど、本当に上手くなったと思うんです。あの頃はスーパーパイプしか滑ってなかったのに、ある程度デカいキッカーだったとしても一度飛んでみて距離感さえわかれば、やったことがない技でもできそうな手応えを感じられて、ジャンプもかなり上手くなったんですよ。今ではそれが、バックカントリーで活かされてますね」
 
“パイプライディングにはあらゆるライディング要素が詰まっている”とよく言われるが、まさしくそのとおりだった。『STONP OR DIE 2』ではパイプライディングだけでなく、ビッグキッカーでのフッテージも残すことができた秀平。オリンピック出場を最優先の課題として取り組みながら、その活動に支障をきたさずにプロとして撮影にも参加。最高のカタチでオリンピックシーズンを迎えることができた。
 
だが、競技者でありながら表現者としてのプロを志す秀平にとって、オリンピックを目指す道は決して簡単なものではなかった。これが今号の大きなテーマのひとつなのだが、競技を中心に賞金や名声を得ることでプロとして活動するスノーボーダーたちも、いずれはフィルミングやシューティング活動に移行、もしくは競技に集中する傍らで撮影活動も両立させておく必要がある。それは、先述したように競技生命が年々短くなっていることを踏まえると、スノーボードで生計を立てていくのであればプロ活動の転換を早々に余儀なくされるからだ。
 
しかも、競技レベルは日進月歩のごとく年々上がっているのだから、より競技に集中し、出場種目のアイテムでの練習に時間を費やさなければ勝つことが難しい時代。だからこそ、秀平にとってはパイプでの厳しい練習を積み重ねながらも出演できるK FILMSや、自身の活動を報告するSNSは、プロスノーボーダーとしての存在価値を高めるうえで必須のツールだったのだが。
 
「当時は、大会で海外に行く前はJISS(国際スポーツ科学センター)に行って、帰ってきたらJISSに行って、トレーニングしたり体力測定をしたり、そのとき囲み取材を受けたりもしてたんです。そういうときにオレだけ絶対に呼び出されて、髪の毛を直されたりピアスを取られたりしてました。コーチから名指しで注意されることも少なくなかったんですけど、なんでオレだけ言われなきゃいけないのかまったく納得できなくて。あの頃のK FILMSは滑りだけじゃなくてお笑い要素も取り入れてたから、ファンサービスとして面白映像をアップしたりSNSに投稿したりもしてたんですけど、そういうのも注意されてました。ファンの反応もよかったし、そういったことも含めてスポンサーから評価されてたわけだから、プロとしての仕事を奪われたくない気持ちが大きかったですね」
 
バンクーバー五輪でのカズがそうだったように、日本社会に埋め込まれた文化的コードとして、目立つことや人と違うこと、ここで言うプロスノーボーダーとしての“個性”は国を代表する立場として“恥ずかしいこと”とされてしまうのだろう。優等生であればお咎めはないのかもしれない。けれど、プロスノーボーダーとしての個性は死んでしまう。オリンピック日本代表候補である以前にプロスノーボーダーとして生きている以上、自らの個性を押し殺すということは、プロとして廃業を意味するといっても過言ではない。
 
こうしてオリンピックシーズンを迎えた秀平は、前シーズンの好成績を引っさげて強化指定ランクが上がると言われていたそうだが、フタを開けてみればC指定のままだった。「これには納得できなかった」とは本人談だが、世界中を転戦するには当然コストがかかるため、この時点でボードブランドの移籍を余儀なくされた。
 
「このシーズンは成績がまったく出せませんでした。遠征先に自腹で残ったりして練習を積んで、調子はよかったんです。でも、そういうときにかぎって雪が降って板が走らなかったり……。そんなの言い訳にしたくないけど,それだけ練習して調子もよかったときに大会がダメだと、精神的にかなり辛かった。そういうときは毎回、カズに相談してました。すごい親身になって話を聞いてくれて、めちゃくちゃプッシュしてくれたんです。でも、US GRAND PRIXが中止になったりして、代表選考の対象大会が少なくなってたんです。本当は4戦あったけど1戦なくなったから全部で3戦になって、最初の2戦で歩夢と卓は(代表入りが)決まってたから、残り3人で2枠を争う感じだったんです。それで、カナダのストーンハムで最後のワールドカップがあって5位だったんですよ。いけるかも!って思ったんですけど、結局ダメでした。オリンピックまでの2シーズンが評価対象って話だったから、それだったら行けると思ったんですけどね。でも、最後の大会はめっちゃ上手く滑れたってわけじゃなかったけど、あのパイプにしては力を出し切れた感じで終われました。だから後悔はないです。でも、ナショナルチームの男子で出られなかったのはオレだけだったから、それが悔しすぎて」
 
偶然には偶然が重なるようで、石川氏が長野五輪を目指していたのも26歳の年だった。「年齢的にちょっと厳しいと思ってた」とは長野五輪を目指していた当時を振り返る石川氏の言葉だが、1998年と2014年では競技レベルに明らかな差がある。ソチ五輪出場は叶わなかったものの、オリンピックを目指す過程で培われた秀平のライディングスキルは、プロスノーボーダーとして誇れるものだった。

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

 
 
CONTENTS

Tadashi Fuse

EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
EPISODE 3 新たなるステージへ
EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
 

Shuhei Sato

EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
▶EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
▷EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
 

Toshiki Yamane

▷EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▷EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 

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