BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」佐藤秀平インタビュー〈第1章〉遊びながら競い合った少年時代

2026.07.27

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※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
 
 
FEATURES

仲間とともに勝負の世界に生きた男のスタイル

佐藤秀平

 
北海道・旭川に位置する老舗プロショップで生まれ育った佐藤秀平。幼少期からスノーボードの本質に触れる傍らで、1998年に正式種目と化した長野五輪を目指す所属ライダーたちの姿を間近で見てきた。小学生時代から大自然の中で楽しむフリーライディングの延長線上に、國母和宏ら仲間たちと競い合う大会が存在し、彼らがオリンピックの舞台を経験してきたからこそ、秀平もその道を志すことは必然だった。
 
しかし、その夢は儚くも散ることになる。彼のメインスポンサーであるブランドを運営する石川健二氏は、前述したショップライダーのひとりであり、秀平がアニキ分として慕う存在。彼らの境遇はあまりにも似ており、石川氏もまたオリンピックへの出場が叶わなかったひとりである。
 
そうした師弟関係や仲間の存在、そして勝負の世界に生きた秀平のスタイルを紐解く。
 
 
EPISODE 1

遊びながら競い合った少年時代

 

 
「いまだに家族からよく言われるのは、保育園時代に先生の前でくるーんって回ったりしながら、“ボク、スノーボードやるんだ!”って言ってたらしいんですよね(笑)」
 
6歳からスノーボードを始めた秀平は、北海道・旭川で最古のスノーボードショップであるKONA SURFの二男として生まれた。1993-94シーズンにスノーボードに初めて乗ることになるのだが、当時KONA SURFに所属していた石川氏がJSBA(日本スノーボード協会)のプロ資格を取得したシーズンと重なるのだ。現在の秀平は、氏が運営するSIMS SNOWBOARDS JAPANのチームライダーとして活動しているだけに、この偶然に運命的な何かを感じてしまうのは筆者だけではないだろう。
 
この時代は、アメリカ西海岸のスケーターたちがスノーボードに跨ったことで巻き起こったニュースクール旋風が日本に上陸した頃であり、団塊ジュニア世代が運転免許を取得できる年齢に差し掛かっていたことも相まって、スノーボードは瞬く間に一大ムーブメントと化した。筆者は1992年の冬にスノーボードを始めたその世代の人間であるため、こうした背景を重々理解しているつもりだ。東京・原宿にあった大型スノーボードショップの合同展示即売会には、数時間待ちという長蛇の列ができるほどだった。
 
「健の兄ちゃん(石川氏の呼び名)たちは当時“KONA3兄弟(高垣誠人、西川塁)”って言われてて人気があったので、オリジナルのアパレルを作ってお店で売ってたんです。健の兄ちゃんのタトゥーがデザインされたTシャツとか、すごい好評だったんですよ。そういうのがめっちゃカッコいいなって。ああいう風になりたいって小さい頃からずっと思ってました」
 
「健の兄ちゃんがNOKIAのCMに出てたんですよ。それを観て、“おー! プロスノーボーダーってテレビに出られるんだ”って、そういう風に(当時のスノーボードは)映ってました」
 
秀平にとって石川氏は大スターだった。幼いながらに自らの価値観でスノーボードのカッコよさを理解し、自らの意志でスノーボーダーになり、そこには、わかりやすい目標であり憧れであるアニキ分が存在していたということだ。
 
「最初は母さんの板に、長靴履いてるオレを父さんが乗せてくれたのが始まりでしたね。小学1年になったときに自分用の板を見つけてきてくれて、父さんがすべて教えてくれました。2年生のとき、まだパイプに入ったことはなかったんですけど、KONA CUPっていうショップ主催の大会があって“お前、出てみるか”って父さんに言われて出たんです。パイプに入ったことがなかったからまったく滑れなかったんだけど、そのとき驚いたのが、自分以外にも大会に出てる子供がいたこと。その子は上から下まで360→キャバ(レリアル)で繋げてました。“やべー、あの子。めっちゃうめー!”って思ってたら、それがカズ(國母和宏)だったんですよ」
 
そのとき言葉を交わすことはなかったそうだが、ハーフパイプを始めたばかりの小学1年生だったカズ(小誌ISSUE 1「國母和宏という生き様」エピソード2参照)と時を同じくして育ってきた秀平。その頃の札幌エリアには秀平やカズよりも年上の小学生スノーボーダーたちが多く存在し、その後、彼らを中心に「真七人侍(原田将臣、中井孝治、村上大輔、佐藤晃大、清原勇太、村上史行、國母和宏)」と呼ばれる、今はなき札幌・真駒内のハーフパイプを拠点としていた若手クルーが誕生することになる。そこにカズは最年少として所属していた。それに対して旭川では、秀平の7つ年上の兄が当時は競技をしており、吉田恭平・啓介兄弟らほかの仲間も含めて、札幌クルーに対抗心を燃やしていたのだ。
 
「小学3年くらいから本格的に大会を転戦するようになったんです。遠征で真駒内へ行ったり、ルスツの大会に出るようになってからは、かなり本気で練習してました。“札幌キッズVS旭川キッズ”みたいな感じで、あの頃はバチバチだったんですよね。こっちのほうが全然下手クソだったんですけど、負けたくないからめっちゃ練習して。カズがマック(ツイスト)やってるって聞けば、オレもマックを練習したりしてました」
 
小学2年のときに、すでに自分よりも上手かった小学1年のカズの存在を知り、さらに後のオリンピアンとなる札幌の上級生たちの滑りから強すぎる刺激を受けた秀平。その実力は認めつつも、決して負けたくなかった。
 
こうした状況だったのだが、当時の彼らの練習方法は、現在の小学生スノーボーダーたちがスノーパークやジャンプ練習施設でスピンの反復練習を繰り返しているのとはわけが違った。北海道という降雪や雪質に恵まれた環境であることはもちろん、時代背景も手伝い、旭川でも札幌でもパイプだけに打ち込んで練習するようなことは一切なかったのだ。
 
「小学生の頃はスクールに入ってました。パイプの大会に出る子供たちを集めてやってる感じだったんですけど、今でも忘れられないのが、一発目の合宿が旭岳だったんですよね(笑)。ジャンプ台を作って、“ここで回してみろ”とか“あの岩のところを飛んでみろ”とか言われて。子供だから、ちょっとしたところをポンって落ちるだけでもめちゃくちゃ面白くて。そうやって自然の中で遊んでるのが楽しかったですね」
 
「学校が終わったらすぐにゲレンデまで送ってもらって、ナイターでパイプを練習してましたけど、ずっとハイク(アップ)しながら練習するようなことはなかったですね。パイプはゲレンデの麓にあったから、リフトに乗って上のほうで飛ぶところを見つけて遊んだりしながら、その流れでパイプにも入ってました。あと、ゲレンデから離れた丘の上にログハウスがあったんですけど、そこにテーブルトップを作ったりして、雪が積もったら“バフバフなんだから、なんか技やってみろ”ってコーチに言われて飛んでみたり。練習っていうよりも遊び感覚でしたね。そして、パイプの練習が終わったら、ゲレンデからそのログハウスに行くまでには家の間とか道路を通らないといけないんですけど、そこまでルートを作って家の横でも飛べるようにして遊んでました」
 
秀平の実家であるKONA SURFから独立した地島智之氏は、1999年にFIELD SNOWBOARD SCHOOLを開校。秀平はもちろん吉田啓介など、多くのプロスノーボーダーを輩出してきた実績を誇る。「地島さんから受けた影響はかなり大きいですね」と言うように、この頃に育まれたライディングスタイルが秀平の礎になっていることは間違いない。
 
現在のスノーボードシーンにおいて、フリーライディングやストリートなどの撮影活動とオリンピックやX GAMESなどの競技活動との間に線を引きたがる傾向が強いように感じるが、秀平はこの当時から、遊びと大会との間に明確な線引きなど皆無だった。遊びの延長線上に大会があり、札幌クルーに負けたくないという強い気持ちがさらにプッシュしていたのだろう。遊びとしてフリーライディングに費やしてきた時間や経験が圧倒的に多いからこそ、彼らは競技に集中していた若き時代からバックカントリーにフィールドを移行した現在に至るまで、常にトップライダーとして君臨しているわけだ。
 
こうして小学生たちが遊びながら競い合っている最中、石川氏は1998年に開催される長野五輪出場を目指し、悪戦苦闘を強いられていた。その理由は、オリンピックに出場するまでの道のりが整備されていなかったから。初となるスノーボードの正式種目化に際して、IOC(国際オリンピック委員会)はスノーボードの国際大会を統括していたISF(国際スノーボード連盟)ではなく、FIS(国際スキー連盟)にオリンピックにおけるスノーボード競技のハンドリングを託したのだ。これが今日に至るまでの“歪み”を生んでいるわけだが、先述したように93-94シーズンにプロ資格を獲得した石川氏は翌シーズンからプロとしてJSBAの大会を転戦するつもりだった矢先に、オリンピック出場という選択肢が浮上してきたのだ。言うまでもなくJSBAはISFの傘下にあり、FISの傘下にはSAJ(全日本スキー連盟)が存在した。
 
「プロとして活動を始めた94-95シーズン、SAJの大会がJSBAよりも先にあったんですよ。大会に出たくてウズウズしてたし、JSBAとSAJそれぞれの状況がはっきり知らされてなかったこともあって、SAJの大会に出ることに決めたんです。そうしたら、JSBAからお達しが来て。うろ覚えなんだけど、“まだSAJとの協議が終わってない段階だから、JSBAのプロはSAJの大会に出たらダメなんですよ”みたいな感じで言われて、プロ資格を剥奪されました」
 
このように石川氏は教えてくれた。だが、話はこれで終わらない。氏は95-96シーズンにプロ資格を再び獲得し、96-97シーズンにはJSBAのハーフパイプ年間王者にまで上り詰めた。長野五輪を翌シーズンに控えた時点で事実上の国内トップになったわけだが、JSBAチャンピオンとはいえ、SAJが派遣するオリンピック日本代表の座をつかむことはできなかった。こうした一連の動向を、秀平は幼いながらに見てきたわけだ。
 
「オリンピック自体を大して理解してなかったんですけど、健の兄ちゃんがいろいろあって出れなくなったっていうことを知って、なんで上手いのに出られないのかがわからなかったから、子供ながらによくそういう話をしてました。でも、いざ長野五輪が始まって観てたら、めっちゃ興奮しましたね。KONAからは大地の兄ちゃん(高垣誠人)が出てて、母さんが録画してくれたオリンピックのビデオを毎朝観てから学校へ行くようになって(笑)。知ってる兄ちゃんが出てるっていうことも、スノーボードがテレビで流れてるっていうことも、どっちもすごいことだって子供ながらに思ってました。あと、4年に一度しかない大会っていうのが、なんか特別な感じがしましたね」

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

 
 
CONTENTS

Tadashi Fuse

EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
EPISODE 3 新たなるステージへ
EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
 

Shuhei Sato

▶EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
▷EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
▷EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
▷EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
 

Toshiki Yamane

▷EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▷EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 

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