BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」佐藤秀平インタビュー〈第2章〉オリンピックという大舞台を目指す決意

2026.07.28

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自然の中で遊びながら、國母和宏ら仲間たちと競い合ってきた佐藤秀平。幼い頃にテレビで観た長野五輪は、やがて憧れではなく、自らが目指すべき舞台へと変わっていく。
 
しかし、カナダ留学やケガによって仲間たちとの差は広がり、一度はプロとして生きる道さえ見失いかけた。それでも再び立ち上がらせたのは、ともに滑ってきた仲間の存在だった。

 
※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
 
 
EPISODE 2

オリンピックという大舞台を目指す決意

オリンピックに興奮を覚えた秀平は翌年、小学5年のときにSIMSからスポンサードを受けるようになる。その後、同ブランドは日本市場から一旦撤退することになるので、現在のSIMSとは運営体制が異なっていたことを念のため付け加えておく。
 
「その頃から海外に連れて行ってもらってました。ジュニアワールド(チャンピオンシップ)に出させてもらってたけど、FISではなくてISFの大会でしたね。大会以外では、SIMSのメインライダーの撮影に参加するために(マウント)フッドに行きました。撮影してるのを目の当たりにして、そこで滑ってるライダーたちのことをカッコいいなと思ってました」
 
若かりし頃から大会と撮影を両立させていた秀平。実家が老舗プロショップであり、お手本となるプロライダーが身近に存在し、ライダー予備軍としてサポートを受ける環境も手に入れた。さらに、札幌クルーに負けたくない気持ちに加えて、おぼろげながら憧れを抱いたオリンピックの大舞台。プロスノーボーダーとしてのカッコよさに憧れを抱きながら、大会に対する熱意は高まっていた。
 
「大会がすごい楽しくなってきてました。でも、オレが回ってる大会には常にカズも出てて、いつも上(の順位)にいましたね。小学6年で初めてJSBAの全日本(選手権)に出ることができたとき、カズがぶっちぎりで優勝したんですよ。オレは5位でした。翌年もユースで全日本に行けて優勝できたんですけど、そのシーズンにカズはプロ資格を獲ってましたね」
 
カズに遅れをとりながらも、秀平は確実に力をつけていた。先述したように、2001年3月に行われた第19回JSBA全日本スノーボード選手権大会のユース男子ハーフパイプ部門で優勝を飾った同シーズン、2000年12月に行われたSAJの大会に初参戦。
 
「オリンピックを目指すんだったらSAJの大会に出なきゃいけないんだって話をされて、それで初めて出ることにしました。大地の兄ちゃんも出てたんですけど、オレのほうが順位が上だったんですよ。そのときに、“オレいけるかも”って」
 
長野五輪に出場していた憧れの大先輩に勝つことができた。ユースでも日本一になった。秀平のスノーボード人生は順風満帆そのものだった。
 
そして、老舗スノーボードショップに生まれ育った環境に加えて、留学して英語力を身につけた兄と同じ経験を弟にもさせたいという家族の想いも重なり、秀平はカナダの高校へ進学することになる。スノーボードと英語を学ぶためだ。さらなる飛躍を求めた英才教育である。
 
「高校から海外に留学するなんて、周りのみんなとは違うからカッコいいって思ってたんですけど、いざ行くとなったら怖くなっちゃって……。中学の卒業式も出ないでカナダに渡って、いきなりポツンとひとりになったからめっちゃ不安になりました。でも、すぐにスケートするような友達はできたんですよ。16歳くらいで親元を離れたから調子に乗ってたんでしょうね。遊びにハマっちゃいました。スコーミッシュってところの学校に行ってて、ウィスラーまではバスで1時間くらいかかるんですけど、旭川に比べたらかなり山が遠いから、それを理由に滑りに行かなかったり。まったく滑ってなかったわけじゃないんですけど、パイプは全然やってなかったですね。山がデカいからいろんな遊びがしたくなって、フリーライディングばっかりしてました。中学のときまでは親がけっこう厳しかったから、大会に出るときなんかは辛いときもあったけど、カナダに来てからはすべてが自分次第になって気が緩んだのかな。朝起きれなかったら行かないし、学校があるときは行かない、みたいな感じでした。でもどっかで、こんなことをしてても(日本に帰って大会に出たら)勝てると思ってたんですよね。周りの同世代よりも上手いって勘違いしてて。シーズンに入ったら大会に出るため日本に戻ることもあって、高校2年のときにはJSBAの全日本(選手権大会)で3位になってプロ資格は獲ったんですけど、明らかにみんなのほうが上手くなってることに気づきました。その全日本では(工藤)洸平が優勝したんですよ」
 
多感な時期だっただけに、大人の階段を踏み違えることもあるだろう。だがそれよりも、慢心のほうが強かったのかもしれない。
 
そして、さらなる試練が秀平を待ち受けていた。
 
「高校3年のときにケガをして、まったく滑れなかったんです。手術して、リハビリして、1シーズンを棒に振りました。さらに留年しちゃったんですけど、卒業できなくても日本に帰れるって高をくくってたら、“卒業できないんだったらずっとそこにいろ。金は払ってやるから”って親に言われて……。卒業するために猛勉強しなきゃいけなかったから、山に行ってる時間がなかった。だからこの2年間は、ほとんど滑れませんでした」
 
ケガでまったく滑ることが許されなかった高校3年の冬、イタリア・トリノでは冬季オリンピックが開催されていた。真七人侍の中井、フミオ(村上史行)、そしてカズが日の丸を背負ってハーフパイプでしのぎを削っていたのだ。その当時の気持ちを「もちろん悔しかったけど、カナダにいてフワフワしてた感じ」と本人は語るが、帰国して参戦していた2005年時のSAJのリザルトを見ても、日本代表組には到底及ばず、JSBAの大会同様に2学年下の洸平にも差をつけられ始めている時期だった。
 
自業自得ではあったものの、秀平は悩んだ。
 
「帰国して中学時代まで一緒に滑ってたみんなの滑りを見たとき、かなり差をつけられていることを実感しました。プロになってたから、こんなんでやっていけるのか?っていう不安もありました。洸平もめっちゃ上手くなってたし。それで、何をするか悩んだんですよ。大学に行くっていう選択肢はこの時点でなかったから、プロスノーボーダーを辞めて別の仕事に就くべきかどうかを。そんなときに洸平の親父さんと洸平に、イチからやり直して、もう一度オリンピックを目指せって背中を押してもらって。それで気持ちを完全に入れ替えることができて、洸平とガッチリ滑るようになったんです」
 
洸平の父は息子を含めてライダー育成に取り組んできた実績があるため、その目は確かだったのだろう。この時点で2007年。洸平はすでに、2010年のバンクーバー五輪に向けてナショナルチームの一員として活動しており、FISのワールドカップで上位に食い込むほどのスキルを有していた。
 
「1、2年練習したくらいじゃ全然追いつかなかったから、ひたすらパイプの練習に打ち込みました」
 
その言葉どおり、SAJの国内大会では上位に食い込むようになってはいたものの、小学生時代からのライバルたちとの差を縮めることはできなかった。カズ、洸平、そして、ダイキ(村上大輔)がバンクーバー五輪に出場。カズはファイナルまでコマを進めて8位、洸平はセミファイナル進出。彼らが躍動する姿は秀平にとって眩しすぎた。
 
小誌ISSUE 1をご愛読いただいた読者諸兄姉はご存知のはずだが、バンクーバー五輪を終えた直後、2010年の夏にカズはSTONPを始動させている。また、洸平が主宰するK FILMSが同年4月からスタートし、第1回目のゲストとして秀平が登場して以降、ほぼレギュラーで出演するようになった。現在のK FILMSとはテイストが異なっており、アクションだけでなくトークを重視したお笑い系ムービーだったこともあり、持ち前のキャラクターを活かして知名度と人気が少しずつ上がっていった。
 
「カズとか洸平にはだいぶ遅れをとったけど、オレはオリンピックを目指すって決めたから、それだけに集中しようと思いました。小さい頃からずっとサポートしてくれていた両親が喜ぶ顔を見たいっていうのもありましたけど、カズ、中井くん、洸平、大輔くん、フミオくんといった、オレがリスペクトしてる人たちがみんなオリンピックに出てるっていうのが大きかったですね。オレだけそこを目指さないっていうのは、どうしても考えられなくて」
 
幼き頃から切磋琢磨してきた仲間たちの存在が、挫折しかけていた秀平を立ち直らせた。それは、小さい頃からしのぎを削ってきたハーフパイプで最高峰の舞台を目指すという、言わば仲間たちに対する暗黙の約束でもあった。

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

 
 
CONTENTS

Tadashi Fuse

EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
EPISODE 3 新たなるステージへ
EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
 

Shuhei Sato

EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
▶EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
▷EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
▷EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
 

Toshiki Yamane

▷EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▷EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 

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