BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 1「國母和宏という生き様」〈第7章〉北米文化に挑み続けたサムライがたどり着いた「世界の頂」

2026.06.10

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US OPEN2連覇ももちろん偉業だが、今読み返して重く感じるのは、世界に認められるまでの苦労を語る言葉だった。競技でも映像でも結果を残し続け、ようやく世界の頂へ。現在の日本の立ち位置も、その積み重ねの先にあるのだと思う。
 
INTRODUCTION はじめに

▶EPISODE 1 “世界のカズ”を築き上げた「幼き夜の大冒険」

▶EPISODE 2 好きなことに本気で打ち込み勝ち取った「史上最年少プロ」
EPISODE 3 競い合った先に見えた「グローバルライダーとして生きる道」
EPISODE 4 言葉の壁を越えて“本場”で学んだ「プロフェッショナルの流儀」

▶EPISODE 5 世界を相手に孤軍奮闘する中で掲げた「日本を変える存在になる」
EPISODE 6 日本中からバッシングされた男が「本当に伝えたかったこと」

▶EPISODE 7 北米文化に挑み続けたサムライがたどり着いた「世界の頂」
 
▷EPISODE 8 仲間とともに苦難を乗り越えて成し遂げた「國母和宏の夢」

▷EPISODE 9 高すぎる意識とスキルが招いた「失われた自信と求められる価値」

▷OUTRO 
 
 

※以下、2016年に綴った言葉をそのまま掲載
 
EPISODE 7

北米文化に挑み続けたサムライがたどり着いた「世界の頂」

“二兎追う者は一兎をも得ず”ということわざがある。スノーボードに置き換えて考えてみると、一般レベルの場合はジャンルに特化して滑り続けるよりも、例えばフリーライディングだけではなくハーフパイプも並行して滑走したほうが、パンピングやテイクオフなどの技術も学べるため、総合的なライディングスキルは確実に向上する。しかし、プロの世界で考えてみると、近年のライディングレベルは各ジャンルとも非常に高いため、バックカントリー、ストリート、ハーフパイプ、スロープスタイル……など、それぞれのカテゴリーに特化して突き詰めていかないと、トップクラスに這い上がることは難しい。それは、プロスノーボーダーたちの活動内容や映像から理解できるはずだ。
 
だが、プロのレベルで二兎を追うことができるのであれば、その高次元な領域でアマチュア同様に相乗効果が得られる。競技の世界で勝ちながら、ムービースターと呼ばれる地位に君臨できる者──2010年の時点で、すでに彼しかいなかった。
 
「STANDARDの撮影でアラスカに行ってたんですけど、オリンピックが終わってからパイプに入ってなかったから、自分が満足のいく滑りをすることしか考えてなかった」
 
バンクーバー五輪を終えて1ヶ月あまりが経過した2010年3月21日、カズはBURTON US OPENで初優勝を飾る。これは同時に、28回目を数える伝統の一戦において、日本人スノーボーダーとして初の快挙だった。思い返してみると、オリンピック前にカズは次のようなことを話していた。
 
「バックカントリーでの撮影を経験してきたことで、技術的にも成長しました。板の扱い方とか滑り方が全然違ってくるし、ボードへの乗り方が変わってきた。バックカントリーって同じ地形を滑ることが絶対にないから、いろんな状況下で滑ってきたことで対応力が広がりましたね」
 
前章でカズが話していた「パイプしかやってないヤツの滑り」というのは、競技化の加速とともに、それに専念しないと勝てない時代、ということも示唆していた。さらに、EPISODE 4でも綴ったが、定期的にハーフパイプでトレーニングを積んでいないとトップレベルをキープすることは難しい。だが、カズは1ヶ月あまりパイプから遠のいていたにも関わらず、バンクーバー五輪のメダリストたちを撃破した。あのとき着地に嫌われてしまったフロントサイド・ダブルコーク1080を、決勝では2本とも完璧に成功。圧巻の滑りだったが、あれだけ(叩くために?)取り上げていたマスメディアはさほど反応を示さなかった。不思議なものである。
 
改めて振り返ってみても、09-10シーズンは素晴らしい活躍だった。翌シーズンにリリースされるSTANDARD FILMS『THE STORMING』の撮影を行う傍らで、X GAMESでの3位、バンクーバー五輪に向けた活動、そして有終の美を飾ったUS OPENでの初優勝。以前から自分の滑りを完成形に近づけるために、どんなに忙しくなろうともあらゆるフィールドで滑りたいと語っていた彼は、いよいよそのステージにまで到達したということだ。
 
有終の美と表現してみたものの、彼の撮影生活はまだ続いていたのだが、この春、今後のスノーボード人生を決定的に変える人物とめぐり会う。現在のエージェントであり、カズの親友。カール・ハリス氏との再会だ。2006年に上映された映画、BURTON作『FOR RIGHT OR WRONG』のディレクターを務めていたハリス氏。もちろん、カズもこの作品に出演しており、以来、ハリス氏は彼の活動を注視し続けていた。
 
「2005年にBURTONでマーケティングディレクターをやっていた頃、初めてカズに会った。『FOR RIGHT OR WRONG』の撮影のために訪れた北海道の石狩と登別で1週間ともに過ごし、彼や彼の家族と仲良くなりました。そして2010年の3月、US OPENでの初優勝後、彼は撮影で(カリフォルニア州)タホにいたんですよね。撮影の合間をぬってサンクレメンテまで来てくれて、オレの妻のココも一緒に週末をうちで過ごしながら、いろいろな話をしました。週末が終わって空港まで送っているときに、ビジネスとして立ち上げようって決めたんです。カズのキャリアにおけるビジネスとマーケティング面を管理するために始めたわけだけど、そうすることで、彼はライディングに集中できますからね」
 
ハリス氏はカズのエージェントになった経緯を、このように語っていた。対するカズは、「BURTONがやってた映画の撮影のときに出会って、その後、カールは別の仕事をしながらも、ずっとオレのことを見てくれてたんですよね。しっかり話したことはなかったんだけど、気に入ってくれてたみたいで。オリンピックに出たりUS OPENで勝ったりしてるのに、なんでアイツは出てこれないんだ、ってカールは思ってくれてたんですよ。“オレがサポートすればアメリカでもヒーローになれる!”って言ってくれて」
 
運命的な再会……いや、これは必然である。ハリス氏が人生を賭けてまでサポートしたくなる男、それがカズだったいうことだ。
 
バンクーバー五輪を終え、間髪入れずに撮影を行ってきた多忙すぎるスケジュールは雪解けとともに終わりを告げるのだが、カズは休むことをしなかった。その理由。当時は明かされることはなかったのだが、2015年の秋にその活動に終止符を打った伝説のクルー・STONPのローンチに向けた準備に追われていたのだ。
 
「今だから言えることだけど、あのとき始めてなかったらここまではできなかった。世界中から注目されてる時期だったし、仲間がついてきてくれるタイミングでもあったから」
 
カズはこのように当時を振り返る。グローバルのコンテストで勝つこと、世界トップクラスのビデオパートを残すこと、これらはカズにとって、もはやプロとして当然の仕事だった。EPISODE 5で語っていたように、彼にとっての最大の目標は“日本を変えること”にほかならない。そのための秘策がSTONPだったのだ。
 
その記念すべきファーストトリップとして、同年7月にフランスへ渡った。シーンに革命を起こすべく選んだパートナーは、堀井優作と上村好太朗。カズと同じく、両名ともドレッドヘアだった。このトリップ以外にも、カズが見込んだライダーたちがグループに分かれて世界各地をめぐり、そのライディングはもちろん、ライフスタイルまでが垣間見られる映像や写真を各メディアに露出。スノーボードが持つ本来の“カッコよさ”を日本国内に周知させるべく、ライダー業だけでなくプロデュース業もスタートさせた。プロスノーボーダーとして、表現と競技をトップレベルで両立させる難しさは前述したとおりだが、それに飽き足らず、日本のスノーボードシーンを変えるために動く覚悟を決めたのだ。
 
フランスからオレゴン州マウントフッドへ渡り、STONPトリップを終えて帰国するとひと段落……することなく、さらなる人生の大きな節目が待っていた。ご自慢のドレッドヘアを切り落として、8月に北海道・札幌で結婚式を執り行ったのだ。入籍は2009年11月に済ませていたのだが、家族や親戚はもちろん、多くのスノーボード関係者とともに新たなる門出を祝った。
 
新婚生活もつかの間。同年11月、カズはシーズン中の拠点をハリス氏が住むサンクレメンテに移すことになる。この年から現在に至るまで毎年、およそ6ヶ月間に渡る単身赴任生活をしているのだ。
 
そして、10-11シーズンが開幕。今から5年以上前の話になるが、強烈なインパクトを与えてくれただけに、いまだ記憶に新しいのかもしれない。BURTONが制作したムービー『STANDING SIDEWAYS』のオープニングパートを覚えているだろうか。さらに、東日本大震災の翌日、ひとりのサムライがアメリカから母国へ勇気を与えたことを。
 
「前からこういう滑りをしたかったしできると思ってたから、ずっと撮影に行きたかった。でも、認めてもらえなければ、そう簡単に連れていってくれるような世界じゃない。日本人がグローバルに出ていくというハンデはずっと感じてました。アメリカにあるブランドからすれば、同じような実力だったら(移動費などの)金がかからないヤツのほうがいいだろうし、(言語の壁がない)コミュニケーションがとりやすいほうがいい。だから、特別すごいとかじゃないかぎり、日本人を起用する理由なんてまったくないんですよ。しかも、彼らに見てもらえる機会もかなり少ないし、トップのヤツらと同じ土俵で滑らないと比較にもならない。アメリカが中心のスノーボードシーンに日本人として入っていくことが、どれだけ難しいのか痛感しました。ここまでくるのに何年かかったんだろう……」
 
この翌シーズンの開幕にあたる2011年9月、STANDING SIDEWAYSのオープニングパートを飾ったカズの映像が世界中に発信された。その中身に驚愕したスノーボーダーの数は計り知れないだろう。これまでもパイプやパークでのライディングは世界トップクラスだった。それはコンテストの結果が証明するとおりだが、この作品で初めて、ビッグマウンテンでの超絶すぎるラインを披露(P66-67参照)。垂直に近い斜面……というよりも崖を、雪崩とともに駆け抜けるアレだ。これが、先ほどのカズのコメントにあった“こういう滑り”である。
 
ナチュラルヒットでも文句なしのフッテージを数多く残し、4分弱のパートが組めるほど撮影に精を出したわけだが、その一方では、BURTON EUROPEAN OPENで2位、X GAMESで5位という好成績を収めていた。
 
こうして迎えた2011年3月11日。このときカズは、BURTON US OPENが行われていたバーリントン州ストラットンマウンテンにいた。セミファイナルを終えて目を覚ますと、インターネットを通じて衝撃的な事実を知ることになる。
 
「こんなこと初めてなんだけど、涙がすげぇ出てきたんですよね。自分がいない間に、日本がなくなっちまうんじゃないかって」
 
このように語っていたカズだが、「“何かのために滑る”ってことはしない。いつでも自分のためであって、いい滑りをすることしか考えていない」と明言しているだけに、動揺することなく大会だけに集中するよう努めた。翌日に行われたファイナルでは、演技を終えた時点で首を傾げる仕草を見せるなど納得いかない様子だったが、US OPEN 2連覇という偉業を成し遂げたのだ。このファイナルは3本のランで争われており、2本を滑り終えた時点で優勝が決まっていたカズは、3本目のランで生まれて初めて、自分以外のために滑った。
 
「あのとき両手を広げて、ホント空だけを見て直滑降したんですよ。そしたら、あれだけ天気が悪かったのに、そのときだけ青空が見えて。あのランのときは、めっちゃ落ち着いた気持ちになれました」
 
同大会で3位に輝いた工藤洸平の胸に飛び込み、そのまま抱き合った。カズの想いは、しっかり日本に届けられたはずだ。
 
さらに加えると、このシーズンに残されたライディング写真が、アメリカで2誌、ドイツで2誌、オーストラリアで1誌、そして日本で2誌と、スノーボード専門誌7誌のカバーを飾った。ハリス氏いわく、「大会の成績もそうだし、これほどまでに多くの露出は、97-98シーズンのテリエ以来ですね。もう伝説の域」
 
世界中がカズを認めた証である。小学6年から国際大会に参戦し、中学3年から海外プロダクションと撮影を始めた。苦節10年──22歳のカズは、ついに世界の頂に到達した。

text: Daisuke Nogami(Chief Editor)

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本記事は2016年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 1「KAZU KOKUBO ──國母和宏という生き様──」』より抜粋掲載。誌面では全9章にわたり、國母和宏のスノーボード人生を収録している。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、その時代の空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 
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