BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 1「國母和宏という生き様」──言葉の壁を越えて“本場”で学んだ「プロフェッショナルの流儀」

2026.06.07

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単身で渡米し、言葉も通じない環境で生活しながら世界最高峰の撮影クルーと行動をともにした高校時代。そこで学んだのは英語ではなく、プロスノーボーダーとして生きる覚悟だった。滑りで認められるしかない環境で培われた自立心と精神力が、のちの國母和宏という生き様の土台になっている。
 
INTRODUCTION はじめに

▶EPISODE 1 “世界のカズ”を築き上げた「幼き夜の大冒険」

▶EPISODE 2 好きなことに本気で打ち込み勝ち取った「史上最年少プロ」
EPISODE 3 競い合った先に見えた「グローバルライダーとして生きる道」

▶EPISODE 4 言葉の壁を越えて“本場”で学んだ「プロフェッショナルの流儀」

 
▷EPISODE 5 世界を相手に孤軍奮闘する中で掲げた「日本を変える存在になる」

▷EPISODE 6 日本中からバッシングされた男が「本当に伝えたかったこと」

▷EPISODE 7 北米文化に挑み続けたサムライがたどり着いた「世界の頂」

▷EPISODE 8 仲間とともに苦難を乗り越えて成し遂げた「國母和宏の夢」

▷EPISODE 9 高すぎる意識とスキルが招いた「失われた自信と求められる価値」

▷OUTRO 
 
 

※以下、2016年に綴った言葉をそのまま掲載
 
EPISODE 4

言葉の壁を越えて“本場”で学んだ「プロフェッショナルの流儀」

 
「言葉で自分の何かを伝えるんじゃなくて、滑りで認めてもらうしか方法がなかった」
 
カズは中学3年のときから、伝統ある格式の高い映像プロダクション・STANDARD FILMSとの活動を始めた。最初はパークでの撮影にスポットで呼ばれたのだが、高校1年からは本格的に撮影クルーに加入。前章で述べたように、中学2年でハーフパイプ競技の世界トップに肩を並べ、高校2年で迎える2006年のトリノ五輪ハーフパイプ種目出場を目指す傍ら、映像を通して自らのライディングを表現する道──いわゆる“ムービースター”への扉も開かれたのだ。
 
だが、この時点で英語はまったく話せない。撮影は長期に渡るため、語学堪能な日本人のチームマネージャーが付き添ってくれるわけでもない。
 
「すごい山の中にある家に降ろされたんですよね。“撮影に行くとき迎えに来るから”って言われたんですけど、天気が悪いと2日間くらい来ないこともあって。“えー、オレどうやってスーパー行こう?”ってなったんですけど、憧れてた世界のトップのプロダクションに面倒見てもらってて、日本から無名の子供がひとりで来てるわけだから、彼らがリラックスしてる時間をオレのスーパーのために使わせるのは気が引けて。だから、スーパーまでめっちゃ遠いんですけど歩いて行ってましたね。免許もないし、大してしゃべれないから、とりあえずバックパック背負って歩きまくってました」
 
少しずつ語学は成長していったのだろうが、カズは高校3年間、冬になるとこうした生活を続けた。スノーボードの世界トップレベルが集まる環境に身を投じているのだから、言葉以外にも戸惑いの連続だったのだろう。撮影方法からそのポイントの選定、自分がどういう画を残したいかなど、現場でのコミュニケーションは相当難しかったはずだ。さらに、宿に帰れば生活するために自分のことはすべてこなした。
 
「日本にいるときもビデオ撮影はしてたけど、意識が全然違った。滑って、帰って、寝て……スノーボードにどっぷり浸かる生活でした。スノーボーダーの生活……プロスノーボーダーとしての生き方を学びましたね」
 
高校生活で部活動に打ち込み肉体的にも精神的にも鍛えられた人、アルバイトを通して社会の厳しさを経験したという人は多いだろう。だが、カズが高校時代に培った経験はそれの比ではない。言葉が通じない環境で、生活全般をひとりでこなし、世界トップレベルに身を投じる恐怖心と期待感。
 
芳計さんは当時をこう振り返る。
 
「あのときのアイツの苦労を考えたら涙が出るよ。だって、高校生が言葉もわからなくて、まわりは外国人だらけのところに1ヶ月以上入れられてたら、精神的にもたないと思う」
 
カズは帰国しても、いっさいの愚痴をこぼさなかったそうだ。
 
「言えないでしょ。本人が好きで行ってるわけだからね。でも、あの経験があったからこそ、今でも外国で活躍できるんだと思う。それができない日本人はたくさんいるから」と芳計さんは続けた。まさしくそうだ。カズは当時、期待感だけを強く抱き続けることで恐怖心を消し去っていたのだろう。すさまじい精神力だ。
 
「やればいいことが明確だったから、すごく楽しかったですね。それだけに全力を注げばよかった。撮影クルーに迷惑をかけないでいい映像を残すってことだけに集中できてたから、滑り終わったら自分でできることは全部やって、あとは次の日に備えてストレッチをして寝るって感じだった。充実してましたよ」
 
冒頭に綴ったように、滑りで認めさせるしか術がなかったということだ。さらにカズはこうも言っている。
 
「何でも自分ひとりでできることが楽しかったかな。生きていくために自分で選択してやっていくのが面白かった」
 
カズが高校1年、3年時にインタビュー取材をした経験があるのだが、行動や言動に至るすべてが高校生離れしていたように記憶している。さらに、この間の成長幅の大きさに驚かされたことも覚えている。STANDARD FILMSとの活動だけでも人間力は高まっていたはずだが、もうひとつの大きな出来事があった。トリノ五輪だ。
 
当時17歳、高校2年でオリンピック初出場を果たす。FIS(国際スキー連盟)が運営するワールドカップの成績がオリンピック代表選考の指針となるため、スノーボードに精通していないマスメディアが多かった当時は、X GAMESやBURTON US OPENといったスノーボード界の最前線にあった競技は注目に値せず、ワールドカップの成績が報道の大半を占めていた。ハーフパイプの強豪国だったアメリカはFISの大会に参戦しておらず、その中でカズは直前の12月にカナダ・ウィスラーで開催されたワールドカップで優勝するなど大きな注目を集めていた。オリンピックを目前にしてマスコミは、“メダル確実”と煽ったのだ。
 
「全然いいものじゃなかった。オリンピックに出たかったから撮影を中断して競技に集中してたけど、自分の滑りがまったくできなかったし、それによっていろいろな人からあーだこーだ言われるのも正直面白くなかったですね。そのときは、このままFISの大会に出続けるべきか悩んだ時期です」
 
結果は予選落ち。2本のランともに“らしくない”ミスをしてしまったのだ。筆者も現地に乗り込み取材していたのだが、その時点でフロントサイド1080を十八番にしていたカズは、フロントサイド900で手堅く予選通過を目論んだ。しかし、そこには魔物が潜んでいたようだ。正確無比だったはずのテイクオフやパイプ内でのラインどりがズレてしまい、思うような滑りがまったくできていないように映った。トリノ五輪後のインタビュー取材では、次のように語ってくれていた。
 
「オリンピックはそう簡単に出られるものじゃないから、プレッシャーだったり、取材攻勢だったり、いろいろな経験ができて成長したと思います。でも、みんなオリンピックのことはニュースやテレビ番組でしか見てないじゃないですか。そこでメダル確実みたいに報道されてたから、一般の人たちはかなり期待していて……。スノーボードに詳しい人は、ショーン(ホワイト)がいたり外国勢が強いことを知ってるけど、普通の人たちは全然知らない。帰国したときに何か言われたわけじゃないんですけど、自分的にあまり人に会いたくなかったですね。オリンピックが終わって1、2ヶ月くらいは、海外にいるほうが気持ちがラクでした」
 
もちろん、メダルは射程圏内にあった。2004年のX GAMESでは4位、BURTON US OPENでは6位、2005年はワールドカップを中心に転戦しており、アメリカ勢はいなかったものの2度表彰台の真ん中に立っていた。
 
カズにとって初めての挫折。だが、彼のスノーボード人生を振り返ってみれば、この挫折こそが大きな転機となっているようにも感じる。
 
「しばらくSTANDARDとの撮影に集中するようになりました。トリノが終わってから本格的にバックカントリーでも撮影するようになったんですよね。その年はパイプをめっちゃ滑り込んでたこともあって、“板に乗れてる”感覚がよかったんだと思う。短期間で集中してパイプの技術を突き詰めてたんですけど、そこまで根気を入れてやり切ると気持ちも身体も疲れるから、そのタイミングで切り替えて違うことに集中できる環境があったのがよかったんだと思う。大会に出られる立場でもあったし、撮影に参加できる立場にもいたから、いいバランスを保ちながらそれぞれで自分を高められていた」
 
1998年にオリンピックの正式種目と化したハーフパイプ競技だが、この間、トリックの進化は著しかった。2010年のバンクーバー五輪に向けてさらに加速していくわけだが、トリックの追求とバックカントリーでの撮影を両立させることは難しいとされている。それは、ハーフパイプのトランジションを滑走する感覚は独特であり、新技を極めるためには時間を要する。さらに、ハーフパイプは“ナマモノ”とも言える。サイズや形状が日進月歩で進化していたため、定期的にトレーニングをしていないとトップレベルをキープすることが難しいからだ。
 
しかし、カズは幼少期からハーフパイプとフリーライディングを絶えず両立させてきた。だからこそ、ここまで短期間で世界レベルに到達できたとも言い換えられる。
 
「パイプから一旦離れようと思った。そこがひとつの区切りだったんじゃないかな。それでバックカントリーの撮影に力を入れるようになって、トップライダーの滑りはもちろん、彼らのスノーボーダーとしての生き方を学んで、自分自身が変わっていったんだと思います」

text: Daisuke Nogami(Chief Editor)

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本記事は2016年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 1「KAZU KOKUBO ──國母和宏という生き様──」』より抜粋掲載。誌面では全9章にわたり、國母和宏のスノーボード人生を収録している。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、その時代の空気感も感じとってもらえれば幸いだ。
 

 
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