FEATURE
【創刊10周年特別企画】ISSUE 1「國母和宏という生き様」──世界を相手に孤軍奮闘する中で掲げた「日本を変える存在になる」
2026.06.08
世界で通用する日本人スノーボーダーになりたい──その想いで走り続けてきた高校時代の國母和宏は、やがて「日本を変える存在でありたい」と口にするようになる。当時は賛否を呼んだ発言も少なくなかった。しかし今振り返ると、その言葉どおりに日本のスノーボードシーンは変わった。コンテスト、バックカントリー、ストリート。その中心には、いつもカズの存在があった。
▶INTRODUCTION はじめに
▶EPISODE 1 “世界のカズ”を築き上げた「幼き夜の大冒険」
▶EPISODE 2 好きなことに本気で打ち込み勝ち取った「史上最年少プロ」
▶EPISODE 3 競い合った先に見えた「グローバルライダーとして生きる道」
▶EPISODE 4 言葉の壁を越えて“本場”で学んだ「プロフェッショナルの流儀」
▶EPISODE 5 世界を相手に孤軍奮闘する中で掲げた「日本を変える存在になる」
▷EPISODE 6 日本中からバッシングされた男が「本当に伝えたかったこと」
▷EPISODE 7 北米文化に挑み続けたサムライがたどり着いた「世界の頂」
▷EPISODE 8 仲間とともに苦難を乗り越えて成し遂げた「國母和宏の夢」
▷EPISODE 9 高すぎる意識とスキルが招いた「失われた自信と求められる価値」
▷OUTRO
※以下、2016年に綴った言葉をそのまま掲載
EPISODE 5
世界を相手に孤軍奮闘する中で掲げた「日本を変える存在になる」
「今までの映像も納得いってないし、今回も納得できていないから、フルパートを獲ったといっても気持ち的には全然変わらないですね。それほどの内容じゃなかったからフルパートを作ってくれて、むしろありがたいという感じです」
トリノ五輪を終えてバックカントリーでの撮影に挑んだカズは、名門・STANDARD FILMSでのフィルミング活動を始めてから3シーズン目にして、初となる自身のビデオパートを獲得した。冒頭の言葉は高校3年に進級した後に、そのことについて尋ねた際の答えである。謙遜というよりも高すぎる意識を垣間見たように記憶しているのだが、名門プロダクションで日本人の高校生がビデオパートを獲るという快挙は、当時は想像もできないことだった。もとい、現在でもそうである。
翌シーズン。高校生活最後の冬はおよそ1ヶ月間、STANDARD FILMSとともに活動した。高校1年時に初めて単身で撮影に加わったとき、スーパーへ行きたくても頼めなかったムービースターたちと同じ土俵での撮影。落差20mはあるだろう巨大なクリフからバックサイド360でストンプする驚愕の映像を残すなど、この年もビデオパートを獲得した。
「まだ全然ダメだと思いました。もっといろんな場所を攻めたかったし、いろんなトリックをしたかった。でも、ほかのライダーたちと対等にやっていけると思えるようになりました」
納得できなかった理由は、恐らく天候を含めたコンディション、そして撮影と並行しながら大会に参戦していたため、時間的な制約が問題だったのだろう。前章では「パイプから一旦離れようと思った」と語っているが、オリンピックイヤーのシーズンに比べれば少ないものの、プロとして主要な大会には出場していた。もっとバックカントリーで滑らせてさえくれれば、自分はイケる。トリノ五輪から1年あまりで、急激な成長を遂げていたのだ。
このとき、当時のSTANDARD FILMSでプロデューサーを務めていたマイク・ハチェット氏は、カズについて次のように話していた。
「カズは順調に成長しているよ。ただオレの見解としては、彼はまだ自分の潜在能力をすべて出しきれていない」
ハチェット氏の洞察力は鋭かった。19歳で迎えた翌シーズン、カズはSTANDARD FILMSだけでなく、BURTONグローバルチームムービーの撮影にも追われる日々を過ごす。中学3年で海外フィルムのシューティングに初参加、高校1、2年はオリンピックを目指す傍ら撮影をこなし、トリノ五輪を終えてから本格的なバックカントリーでのフィルミングを行った。バックカントリーでのシューティングは3シーズン足らずの経験だったが、この07-08シーズンにはアラスカ・ヘインズでの撮影を敢行。
「世界トップクラスのライダーたちとバックカントリーで撮影してきて、ようやくそのレベルでの自分の立ち位置がわかってきました。初めてアラスカで撮影したんですけど、世界最高峰のビッグマウンテンでグローバルライダーたちと対等にライディングできました。今までは言葉の壁とかもあるから気を遣うことが多くて、周りのペースに合わせてた感じだったけど、このシーズンは自分の思ったとおりに、やりたいことを貫けたのがよかったですね。ビッグマウンテンでも自分のスタイルが出せるようになってきたし、パークと同じトリックをナチュラルでもできるようになりました」
己を叱咤し続けてきた男は、乾いた大地が水を吸収するかのように急速な進化を遂げ、10代最後のシーズンに納得のいくライディングを確立させた。しかもこのシーズン、カズはハーフパイプの大会でも好成績を収めている。2007年7月 のABOMINABLE SNOWJAMは4位、同年8月のAUSTRALIAN OPENは5位(スロープスタイルは3位)、2008年1月のWINTER X GAMESは5位、同年2月のNIPPON OPENは2位(スロープスタイルも2位)、同年3月のBURTON US OPENは8位と、優勝こそなかったもののコンスタントに上位に名を連ねた。バックカントリーでの充実した撮影をこなしながら、ハーフパイプ競技に定期的に出場した上で好成績を残す。まさに、カズの真骨頂が発揮された納得のいくシーズンだったに違いない。
ただし、その舞台裏では並々ならぬ努力があった。高校時代をすべてスノーボードに捧げ、初めてのオリンピックを経験する傍らで言葉や文化の壁を乗り越え、競技と撮影を両立させながら世界トップを目指すという年齢を凌駕する生き方。その結果、少しずつ世界レベルの実績を上げられるようになり、確固たる自信を掴みかけていた。
「日本っていう国はめっちゃ好きなんですよ。ただ日本のスノーボードシーンが嫌いなだけなんで。まぁ嫌いっていうか……カッコいいと思えないんですよね。いいか悪いかはわからないけど、日本の現在のシーンと、海外のそれが向かってる方向は全然違う気がする。ひさしぶりに日本のDVDをじっくり観たんだけど……基本的に何を求めてるのかよくわからないっていうのが、オレのはっきりした意見で。確かにいろんなビデオがリリースされてるけど、そのほとんどがパークで滑ってるだけで、もちろんナチュラルで撮影してるものもあるけど……海外と比べたら趣味のビデオに見える」
20歳を迎えて初めてのシーズンに入ったばかりの頃、カズはこう漏らしていた。これまでも彼とはいろいろな言葉を交わしてきていたのだが、初めて大きな棘を感じた瞬間。この言葉の真意について改めて尋ねてみると、8年前の自分をこう振り返った。
「日本は日本でシーンが盛り上がってる時代で、そのなかでオレはひとりで海外でやってた。まだ芽が出るか出ないかわからないときだったから、日本でやってるスノーボーダーたちが楽しみながらラクしているように見えたんだと思う。それに対してイラっとしてましたね」
先述したカズの刺々しい発言は当時、業界内で大きな波紋を呼んだ。カズが小学6年の頃から見てきた世界と、島国・日本で育まれた価値観との間には、大きな隔たりがあったからだ。“自由”を重んじるフリースタイルスノーボーディングが日本に輸入されて20年ほど経過していたが、環境の違いもあってか、その意味合いに少しずつズレが生じている時期だったように感じる。圧雪・整備されたパークでトリックの技術を磨き、その滑りを無限の可能性を秘めるバックカントリーで表現するという自由な発想。かたや、“フリースタイル=トリック”という理解が強すぎたためか、パークという制約のあるフィールドで切磋琢磨を繰り返していた不自由な発想。もちろん、文化や国民性の違いもある。だが、カズが目指していたものは、スノーボードの本場が求めるリアルなスノーボーディング。もちろん、前者であった。
彼は日本のシーンに対するバッシング発言とともに、こうも語っていた。
「日本だけで滑っていた頃は世界を知らなかった。でも、本格的に世界で活動できるようになって外から日本を見てみると、“あぁ、こんなに違うんだ”って。だからこそ、日本のシーンで満足してちゃいけないし、同じことをしてるだけじゃダメだって思うようになったんです」
この頃の自分を、「ひとりで(海外クルーに)ついていくのが精一杯だった」と身を粉にしていた時代を振り返るカズ。
「自分に対してプレッシャーをかける意味合いが強かった。言ったからにはやらなきゃ、って気持ちになるし。そのときは海外のシーンに対する憧れが強くて、日本を拠点にやろうって考えはまったくなかったけど、自分が絶対そっちにいかないようにするためでもありました。日本に戻って活動すれば、楽しいしラクになるっていうのはわかってたから」
自らが求める世界のトップへ辿り着くために、己を追い込んでいたということだ。その当時に語られることはなかったが、全身全霊を傾けて築き上げてきた絶対的な自信の裏側には、計り知れないプレッシャーもあったということだろう。
──およそ1年後。バンクーバー五輪を目前に控えていたカズにインタビュー取材をしたときのこと。自らにプレッシャーをかけるためのバッシング発言だったはずが、それすらも背負い込む覚悟を決めた彼がいたのだ。
「日本を変える存在でありたいんです。ジャパンのスノーボードが超カッコいいっていうことを、世界に発信したい。そういう気持ちでやっていくつもりです」
2009年10月6日、全日本ナショナルチームの合宿に参加するために成田国際空港から出国する直前に発せられた言葉だ。生半可な気持ちでは決して口にできない。オリンピックの話よりも積極的に熱く語られた、この強き想い。
そして、11月に行われたワールドカップでは欧州の強豪勢を破り優勝、オリンピック開幕直前の1月下旬に開催されたX GAMESでは、アメリカ勢も加わった事実上の“世界一決定戦”で3位に。万全を期して、カナダ・バンクーバーの地へと乗り込んだ。
その先に待ち受けていたもの。そう、周知のとおりだ。あの事件が勃発する。
text: Daisuke Nogami(Chief Editor)
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本記事は2016年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 1「KAZU KOKUBO ──國母和宏という生き様──」』より抜粋掲載。誌面では全9章にわたり、國母和宏のスノーボード人生を収録している。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、その時代の空気感も感じとってもらえれば幸いだ。

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