FEATURE
【創刊10周年特別企画】ISSUE 7「フリースタイル温故知新」〈第2章〉クレイグ・ケリーが築いたフリースタイルの世界
2026.08.24
ライダーがギアを進化させるのか。それとも、ギアがライダーを進化させるのか。
BURTONをレース中心のブランドからフリースタイルへと大きく動かし、その後のプロダクト開発にも計り知れない影響を残したクレイグ・ケリー。彼とともにギアを作ったふたりの開発者の証言から、その答えを探る。
※以下、2018年に綴った言葉をそのまま掲載
BURTONのプロダクト開発者たちに訊いた
クレイグ・ケリーが築いたフリースタイルの世界
前章「ハードギアの歩み」をご一読いただければわかるように、1988年はフリースタイル元年と呼べるだろう。それは、ビンテージボードの写真を眺めているだけでも気づくことができるかもしれない。また、各年代ごとに誕生するギアの背景には、チームライダーたちの存在があることも理解できたはず。そう、ライダーなくしてプロダクトは語れない。
そして、クレイグ・ケリーなくしてフリースタイルは語れない。
BURTONに移籍してきたクレイグは、それまでレースが中心だった同ブランドの方針をフリースタイルへ舵を切らせた。当然プロダクトにも新たな息吹が吹き込まれ、そうしたギアにまたがってクレイグから放たれるライディングスタイルがフリースタイルシーンを確立していったわけだ。プロダクトなくしてフリースタイルは語れず、フリースタイルなくしてプロダクトを語ることもできない。
そこで、米バーモント州バーリントンに位置するBURTON本社を訪ねることにした。歴史に残る数々の名ボードの開発に携わってきたJGことジョン・ゲルント氏、STEP ON®などライダーたちの足まわりを研究し続けているクリス・ドイル氏の両名に、クレイグとフリースタイルスノーボーディングの相関関係について話を訊くことに。
こうして浮き彫りになった、クレイグ・ケリーが築いたフリースタイルの世界。
語り手

クリス・ドイル(左)
ラピッドプロトタイプ・エンジニア
アメリカ・ニューヨーク州の小さな農家の町、デラウェア郡シドニー生まれ。1992年9月にグラインドライト設立。プロライダーたちのギア調整などを担当する。その後、1996年2月にBURTON入社、初のアシスタント・バインディング・プロダクトマネージャーに抜擢。その後はプロダクションマネージメントを経て、現在に至る。
ジョン “JG” ゲルント(右)
シニア・オンスノーテスティング・コーディネーター
アメリカ・ニュージャージー州の緑豊かな郊外、マウンテンサイドで生まれ育ち、現在はバーモント州ストウに暮らす。80年代前半のBURTONチームライダー。短大を卒業後、1987年にBURTONにておもにテレフォンオペレーターとして働き始める。その後、プロダクト開発、ボードテスティング部門に加入し、現在に至る。
BACKSIDE(以下B): まずはおふたりにお聞きしていきます。クレイグとの出会いについて教えてください。
クリス・ドイル氏(以下C): 僕から? OK、わかったよ。僕がクレイグに初めて会ったのは1996年の春、早朝のオフィスだったんだ。真っ暗なオフィスのなかで自分のデスクに向かっていくと、誰かが僕のイスに座ってるんだよ。僕がJGの横で仕事をしてるってクレイグは知ってたと思うんだけど、実際に会ったことはなかったからね。そしたらさ突然、その男がイスに座りながら回り始めて、僕の顔をじっと見つめるんだ。そう、それが“クレイグ・フェイス”。顔から足まで舐めるようにしてじっと見つめるんだよ。その逆も然りね。彼が最初に放った言葉は、「テリエがキミだとしたら、僕に最高のバインディングを作ってくれるって言うんだけど」。もう驚いちゃってさ。彼に返した言葉は「テリエが……そう言ったんだ……」って、驚きながらも笑うしかなかったよ。それが最初に出会ったときのストーリーなんだ。
ジョン・ゲルント氏(以下J): オレがクレイグに初めて会ったのは大会かな。彼がまだSIMSのライダーだった頃。どうしても勝ちたい相手だった。オレだけじゃなくて、ほかにもたくさん彼を打ち負かしたいと思ってるヤツらはいたよ。オレはアメリカ東部の人間で、彼は西の人間だったから、その当時は考え方から何もかもが違ったんだ。クレイグはBMXもそうだけど、何をやらせても上手かった。本当にすごいアスリートだと思ったよ。実は彼と一緒に一度だけサーフィンをやったことがあるんだけど、のめり込んだら本当に真剣になってやるんだ。何をやらせてもすぐにできてしまうタイプだったね。スポーツ万能なだけでなく、食事にも気をつけていたよ。サラダやオーガニックなものを食べてバランスを整えながら、自分で献立まで考えていたんだ。今ではみんな、身体を健康に保つにはどうしたらいいかわかるよね? でも彼は、とうの昔からそれに気づいてたんだから驚きだよ。誰よりも先を行ってたヤツだった。
B: クレイグはどのような経緯でギアの開発に携わるようになったのですか?
J: 彼はBURTONに入るとすぐに、MYSTERY AIRの開発に取りかかってたよ。確か、ポール・レンという今は業界から離れてしまっている開発者と一緒に作ってたって聞いたな。だから、本当のところ彼がどうやって最初のギアの開発に関わったかはわからないんだ。でも、それ以降スノーボードシーンのすべてが変わったと言っても過言ではないかもね。
C: 僕がBURTONに入社する前の話なんだけど、すでにクレイグはJGやほかの開発者も含めて何かを開発してたんだ。一緒に開発をするようになったのは、バインディングのストラップやバックルを大幅に変更して、ルネサンスと言えるほどの変革を起こしたときだったと思う。その当時のチームライダーたちは新しかったりクレイジーなものにはまったく手を出さなかったけど、クレイグはすべてを試すんだ。新しいものには目がないって感じでさ。実のところクレイグは、スノーボードの世界に足を踏み入れる前は化学エンジニアを専攻する大学生だったんだ。だから、彼はいつもクリエイティブな考え方をしていたよ。新しい素材を探しては、バインディングやブーツをデザインしていたかな。クレイグと僕は、ストラップとバックルをさらに改良するためにはどうしたらいいかということを、常に考えていたんだ。ヒザまであるブーツを作ったことがあるんだけど、彼は喜んで滑りに行ったよ。ヒザまでストラップが10個もあるバインディングや、カカトの下にパッドを忍ばせたりと、彼が依頼してくるものは何でも作った。頻繁に会うことができなかったから、ファックスを使って毎日アイデアを出し合ってコミュニケーションを図っていたんだ。クレイジーなアイデアはすべてクレイグから送られてきたもの。彼の正確なスケッチや情報に基づいて、何百ものプロトタイプを作ったんだよ。
B: 今は亡きトム・シムス氏が「クレイグを失ったことは痛恨の極みだった。その後、すべてが変わった」と述べています。彼にここまで言わせてしまうクレイグは、どれほどBURTONに貢献したのでしょうか?
J: クレイグはいつもプロダクトのことを考えていた。ブーツ、バインディング、そしてボードのすべてに関わっていたんだ。クレイグの影響力は、BURTONが当時5ホールパターンのバインディングシステムから3Dディスクに変わったときが絶大だったと思う。この開発には2、3年くらいかかった。とてもラフなプロトタイプのバインディングに何度も乗る必要があったからね。クレイグは3Dディスクの開発に関わった最初の頃、とても疑わしい顔をしてたよ。彼は5ホールバインディングで十分だと思っていたからね。こんな小さなディスクがライディングを支えてくれるとは思ってもいなかったみたいなんだ。ここにオレと(ジェフ)ブラッシー、そしてクレイグが写ってる面白い写真があるんだ。ブラッシーはオレの肩越しに3Dディスクのプロトタイプを食い入るように見てるのに対し、クレイグはただ突っ立ってボーッとしてるだけ。ライディング可能なプロトタイプが完成したとき、オレとクレイグは5日間ほど一緒に滑りに出かけたんだけど、戻ってくる頃には完全に3Dの虜になっていたよ。
C: この話はすべて僕がBURTONに入る前のことなんだけど、傍観者としての観点から言わせてもらうと、実際のところクレイグとSIMSとの関係は特別なものだったと思うんだ。と言うのも、トム・シムスは自分が作るボードにサーフィンやスケートボードといった西海岸のスタイルを取り入れていたよね。クレイグがBURTONに来たときは、その西海岸の技術や創造性を持ち込んできて、BURTONをよりフリースタイルの強い会社にしたんだ。それが僕の見解だね。クレイグが移籍してくる前、BURTONのプロダクトはすべてレース専用だった。ボードはダウンヒルを速く滑るためにデザインされていたけど、その当時はハーフパイプを中心としたフリースタイルというトレンドが生まれ始めた頃だったから、クレイグはBURTONからレース色を薄めて、もっとフリースタイルの匂いがするブランドに変えたんだよ。
B: クレイグはギアの進化を促すと同時に、その進化したギアを用いてライディングをどのように成長させましたか?
C: この質問はJGのほうがしっかり答えられると思うよ。僕の意見としては、クレイグがBURTONに入る前のボードはガラクタで、彼が来てからのボードは本当にヤバイんだよ。
J: バックカントリーやビッグマウンテン、スティープな斜面、そしてツアリングなどに興味があったクレイグは、大会やゲレンデから離れていったんだ。彼はライディングするポイントのコンディションや地形によって、いろんなサイズのボードを乗りこなしていたよ。それで、自分のライディングが改善されたとしたら、そのボードの乗りこなし方をとことん追求するんだ。例えば今話したバックカントリーのように、自然のなかじゃないと見つけることができない何かを求めてね。一般のシーンがバックカントリーに目を向けるようになったのは、クレイグがキッカケだったと思うよ。

B: クレイグのフィードバック、そしてジェイク・バートン氏やあなたたちの開発力によりBURTONのプロダクトは大きな進化を遂げたと思いますが、開発秘話などがあれば教えてください。
J: オレとジェイクだけが関わってたわけじゃなくて、ほかにも関係してた人はたくさんいるよ。クレイグは彼自身が望むプロダクトが作れるように、オレたちをプッシュしてできるかぎり開発を前に進めるようにしてたんだ。いまだに彼ほどたくさんの要求をしてくるライダーは現れていない。ボードを開発するときなんて、彼はものすごくたくさんのプロトタイプを作らせるし、それらに乗る前にはすべてのディテールを聞きたがるんだ。こうしたことをすべて実現してきたのは、やっぱり彼の集中力だったんだと思う。オレの保管してるEメールには彼のフィードバックがたくさんあるんだけど、信じられないくらい細かいディテールまで、すべての情報が正確に記されてあるんだ。こんなメール、クレイグ以外に書いてきたヤツはいないよ。そうした要望に従うのは本当に骨が折れる作業だったけど、彼が欲しているものはとてもわかりやすかったんだ。
C: 本当にごめんなさい。この時代に僕はBURTONにいなかったからJGのようには答えられないと思うけど、知ってることを話すよ。クレイグがまだ大会に出ていたとき、彼はBURTONチーム、ジェイク、そして会社のみんなとのコミュニケーションがとても円滑だった。こうした環境でクレイグはMYSTERY AIRを作り出し、それが基盤となってすべてのプロダクトにも反映されたんだ。クレイグがコンテストシーンから退いたとき、テリエやブラッシー、ニコル・アンジェラス、シャノン・ダンなど、彼に次ぐ若いフリースタイルライダーたちに注目が集まり始めてた。そのときクレイグは、どうしたら彼らがライディングスキルを活かしてBURTONという会社を支えることができるのかをライダーたちに教え始めた頃でもあったんだ。ライダーがあっての会社であり、その基礎があるからこそビジネスができるという方式はクレイグが作り上げたのさ。
B: プロダクト開発におけるライダーの必要性について教えてください。
C: ジェイクがいつも言っているように、BURTONはライダーありきの会社であり、だからこそ仕事が面白いし、プロダクトを開発する意義も出てくるんだ。世界最高峰のライダーとともに働いていて感じるのは、彼らの能力はいつも僕らよりも上をいっていて、彼らが新しいものを生み出し、だからこそ常にクリエイティブであり続けているんだ。今でも覚えているけど、ライダーたちはハーフパイプで小さい技しかできなかったのに、1997年になるといきなりデカいエアを繰り出して技を仕掛けるようになったんだ。たった1年の話なのに、エアは2倍の大きさに。それと同時に、今まで見たことのないような壊れ方をボードがするようになって、それを改善するのが本当に大変だったよ。バインディングも最高だと自負していたものが壊れる時代だったんだ。ただシンプルに、ライダーたちのパフォーマンスがどんどん大きくなっていったからね。そうした進化は今もなお続いてるよ。
J: もちろん、なかにはプロダクトの開発に向いているライダーもいる。クレイグみたいにユーザーのことをまったく考えず、自分のライディングだけのために開発に向き合うライダーもいる。ただ、ライダーの意思を尊重したうえでユーザーにも使いやすいものを作り、買い求めやすい価格に設定できるプロダクトを生み出すことがオレたちの仕事なんだ。オレは昔は契約ライダーだったし、今もライダーとしてこの会社にいるけど、自分のライディングから得た経験をプロダクトのアイデアとして考えることだってある。ひと昔前は改善させなければならないことばかりだったけど、今は質のいいものだらけだから、改善することが逆に難しくなってきてるよ。
B: 彼の名を冠したCRAIG’Sという開発ラボが証明しているように、現在に至るまでクレイグの魂がプロダクトに宿っていると思いますが、どのような想いで開発されていますか?
C: 彼は僕の研究室にいつもいるよ。毎日一緒に働いている。あの壁に飾っている写真が、いつも僕に勇気を与えてくれるんだ。彼の存在は僕にとって本当に特別なもの。初めてクレイグに会ったときから仲良くなり、一緒に働くことが楽しかった。彼が僕にとってどれほど重要な存在なのかを感じることができるストーリーを教えてあげるよ。実のところ僕はパイロットの資格を持っていて、小さな飛行機を所有してるんだ。ある日、アメリカの西海岸から東海岸までクレイグと一緒に飛行機を飛ばすことになってさ。忘れることができないほど楽しい一日だったよ。彼はかのクレイグ・ケリーだから飛行機くらい飛ばせると思ってね、操縦桿から手を離したんだ。そうしたらクレイグは怖がっちゃって、何もできないんだよ。だから、飛行機の操縦方法をスノーボードやサーフィンの滑り方に例えて教えたら、驚くなかれ。彼は着陸するまでの時間で、飛行機の操縦方法を身体の感覚でマスターしたんだ。その後、クレイグはスプリットボードを愛用するスノーボーダーとして、カナダのバックカントリーガイドの資格を取ろうとしていた。昔はそんなヤツは誰もいなかったし、今でもいないと思う。彼の夢を叶えるために、それから2、3年ほど一緒にスプリットボードの開発を始めたんだ。でも、残念なことに彼は雪崩で帰らぬ人になってしまった。もう二度と一緒に働くことはできないんだ。最後に交わした言葉をいまだに鮮明に覚えているよ。それくらいクレイグの存在はパワフルだったから、今でも僕の研究室のどこかにいるような気がするんだ。
J: 確かに、今日あるすべてのプロダクトには、彼が築き上げた基礎があると思う。でも、オレたちが現在開発しているプロダクトは、ほとんどクレイグとは関係のないものが多い。RPラボ、ラピッドプロトタイプマシンも今はあるし、さらに言えばボードを1日で完成させることができるようになった。クレイグはオレたちのハートにずっといるし、見守ってくれていると思う。今のBURTONはすべてが正確に計算されながら計画どおりに動いていて、ユーザーのことを一番に考えてプロダクトが作られているんだよ。
B: これまでのプロダクト開発でもっとも革新的なこと、または苦労したことを教えてください。
J: ESTバインディングとTHE CHANNELが一番開発するのに時間がかかり、売り出すまでにも苦労が多かった。もちろん、その間に学んだことは数知れずだけど。
C: 一番大変だったのは、クレイグがガイドの資格を取ろうとしていたときだった。これまで以上のスプリットボードを作ろうとしていたんだ。より速く、より耐久性に優れた、より効率的なボードを目指してね。でも、本当に大変だったよ。彼が望むことを形にするのは難しくて……。90秒以内でスキーモードからライディングモードに変えられるように設計しなければならなかった。でも結局、そんな優れものは作れなかったよ。あともうひとつ、クレイグと開発していたストラップは本当にワケがわからなくなるくらい大変だった。というのも、彼が頼んできたプロトタイプを作っても、できた頃にはすでにクレイグのアイデアはさらに前進しすぎていてね。何を作ればいいかわからなくなったこともあったほどだよ。
B: ここからはボードの開発についてJGさんに聞いていきたいのですが、1989年にリリースされたMYSTERY AIRはクレイグの名を冠していませんが事実上、彼の初となるシグネチャーボードということでよろしいでしょうか?
J: このときはフルタイムで開発チームに携わっていたわけじゃないんだ。オレは契約ライダーで、BURTONが必要とする仕事は何でもしていたよ。例えば電話係だったり、ショップでボードを売ったりとかもね。研究開発チームに加わったのは、この質問の時代よりもちょっと後かな。MYSTERY AIRは基本的には彼のシグネチャーモデルと言ってもいいけど、公式にはそうとは言えないかもしれない。というのも、あのボードの名前がMYSTERY AIRになったのは、SIMSとBURTONとの間にある契約や法的文書が絡んでいたからなんじゃないかな。MYSTERY AIRが作られたのは南バーモントにあるマンチェスター市というところで、冒頭で話に出たポール・レンとクレイグ、そしてジェイクが力を合わせて作ったものだと聞いてるよ。
B: 1988年にAIR、1989年にMYSTERY AIR、1990年にCRAIG KELLY AIRが誕生します。これらのボードがフリースタイルスノーボーディングの世界を開拓したと言っても過言ではないと思いますが、シーンに対してどのような影響を与えたのでしょうか?
J: これらのボードはフリースタイル用に開発されたボードで、ノーマルでもスイッチでもどちらの方向へもライディングできるようになったんだ。しかも、パウダーを疾走できるボードでもあったよ。この後に時代のトレンドはフリースタイル中心になっていくんだ。

B: 今日のBURTONボードにおいて、クレイグなしに語ることのできないテクノロジーはありますか?
J: 実のところ、クレイグが当時考えていたものを今作ろうとしているんだ。完全にトップシークレットだから、内容については教えられないけどね。2001年にクレイグとオレがボードのテクノロジーについてやりとりをしたEメールのプリントを最近発見してさ。17年前に、今オレが作ろうとしているアイデアを彼がそのときすでに持っていたなんて驚きだよ。現在のボードラインナップについて話すと、FAMILY TREEを含めたすべてのボードの基礎として、クレイグが開発に携わったMYSTERY AIRがあるんじゃないかな。クレイグがボードを作るうえで掲げていた最終的なゴールは“軽く”、そして“強く”という考えだった。それは、オレがこれまでに作ってきた現代版のMYSTERYやFISH、それ以外のボードに今でも反映されているよ。
B: 今後、ボードはどのような進化を遂げていくと考えていますか?
J: 進化するためには、我慢と時間が必要なもの。もちろん、チームライダーたちとそれを支えるスタッフたちとで、雪上で見つける時間も必要なんだ。現在のボードラインナップやマーケットにヒントが隠されていないか探したり、ユーザーが何を欲しているかを見つけることからも進化が生まれるんじゃないかな。今は本当にいいボードがそこら中にあるんだ。そう考えると、それよりもいいボードを作ることって簡単じゃないと思うけどね。
B: さて最後に、バインディングとブーツの開発についてドイルさんに話を聞いていきたいと思います。CRAIG KELLY AIRのリリースと同年の1990年、FREESTYLE BINDING & BOOTがリリースされます。シグネチャーボードだけでなく、これらバインディングとブーツにもクレイグのフィードバックが影響を与えたのかどうか、知っている範囲で教えてください。
C: 正直なところ、この時代に僕はまだいなかったんだけど、知識をもとに言わせてもらえれば“はい”と答えるだろうね。なぜかと言うと、この時代にBURTONはレース志向からフリースタイル用のプロダクトを開発するように変わっていったわけだから。その当時、こうした動きがスノーボードの未来を表していたんじゃないかな。実はね、BURTONで働く前はスノーボードの大会でメカニックとして働いていたんだ。そして、いろんなものを直していたよ。大会に出るライダーのためにギアの準備をしたり、壊れたものを調べては改善できるように努めてたんだ。1990年のプロダクトに関しては改良しがいのあるものばかりだね。必要があれば、ダクトテープをグルグル巻きにして使っていたときもあったよ!
B: その後、シーンはフリースタイル中心に移行していきます。BURTONのバインディング&ブーツがどのように進化していったのか教えてください。
C: バインディングとブーツは柔らかくなっていったかな。昔はスキーブーツみたいに硬くてね。最初に登場したバインディングは緩すぎて締まりのない感じだった。次にBURTONが開発したのは真っ黒で硬い“ダースベイダー・バインディング”と呼ばれるものだったんだよ。それはもう、硬くて重くて……。ベースプレートから独立したハイバックが登場してから、ライダーはポークやトゥイーク、さらにいろんなスタイルが可能になったんだ。ブーツでは、ブラッシーやほかのライダーのために作られたSTUMPYや2-TONGUEのように柔らかく、そして低くなっていった。彼らは考えもしないようなフリースタイルアクションを繰り出していたけど、テリエはその反対で、大きく飛ぶために、そして速く滑るために硬いギアをほしがっていたよ。だから、その時代は大きく分けてふたつにフリースタイルのプロダクトが分かれていたかな。
B: 現在のSTEP ON®につながる系譜として、1995年にリリースされたベースレスのCONTACT、1999年リリースのSTEP INが挙げられますが、これらの開発にも携わっていたのでしょうか? もしそうであれば、現在のSTEP ON®はテリエでも使いたくなるというコンセプトのもと開発されていると思いますが、クレイグはどのようなフィードバックをすると想像しますか?
C: CONTACTはブラッシーのために作られたもの。ブラッシーはベースレスバインディングをほしがっていたからね。クレイグはFREESTYLE BINDING派だったから、ストラップの開発に集中していたよ。1998年にCONTACTは生産中止になったけど、ESTとして2008年に戻ってきたんじゃないかな。最初のESTプロトタイプは、汚いウエアハウスから古いCONTACTを取り出してきて、新しいストラップとハイバックを取り付けて完成させたんだ。STEP INはもちろんクレイグに試してもらいたかったんだけど、その当時、彼にはなかなか会うことができなくてね。その後に聞いた話だとSTEP INを使っていたそうだから、もしかしたら開発に携わっていたのかもしれない。STEP ON®の開発をしていたとき、目標はこれまでのストラップバインディングのように滑ることができる、もっとも便利なバインディングを作ることだった。あと、テリエがそういう画期的なバインディング&ブーツをほしがっていたという事実もあるけどね。もしクレイグがSTEP ON®を見たとしたら、確実に使いたがると思うよ。どんなフィードバックが来るかは想像もできないけど、一度何かを発見したら、そこが改良されるまで僕の研究室に居座るだろうね。
B: 今日のBURTONバインディング&ブーツにおいて、クレイグなしに語ることができないテクノロジーはありますか?
C: クレイグは最高水準の2ストラップバインディングとソフトブーツを確立させたと思うよ。そして間違いなく、そのテクノロジーをBURTONはいまだに使い続けているんだ。
B: 今後、バインディング&ブーツはどのような進化を遂げていくと思いますか?
C: それがわかっていたら、こんなところにいないよ! BURTONは40年以上もの間、よりよいものを作り出そうとしてきているんだ。もちろん、もっと快適なバインディングを作りたいし、より簡単に扱えるものにしたい。そして、それ以上にチームライダーたちが記録を生み出すことができるようなギアを作りたいと思っているよ。STEP ON®に関して自分の意見としては、まだまだ開発途中だということ。もっと学ばなければいけないことがあるんだ。お客様でもあるスノーボーダーのみなさんが意見してくれるし、彼らが僕らにいろんな考え方を教えてくれる。開発をする僕たちはマーケットにいないからこそ、彼らから学ぶことができるんだ。何が問題なのか、そして何が有益で、改善ポイントは何なのか。すべてが僕らの耳に届き、それがプロダクト開発に反映される。STEP ON®に関しては、もっと成長してほしいと思ってるよ。もちろん、最高のライダーには最高仕様のギアを。それらをすべて叶えるために、いつも働いているんだ。もちろんSTEP ON®だけじゃなくて、ストラップバインディングの開発ももっと進めていかなければならないんだけどね。クレイグが僕たちに教えてくれたように、面白くてクレイジーなギアを情熱を持って作っていかなければならないと思うよ。だって、僕たちはみんなスノーボードが大好きなんだからさ。

クレイグ・ケリー
生年月日: 1966年4月1日(享年36歳)
出身地: アメリカ・イリノイ州グラニットシティ
ワシントン州マウントバーノンで幼少期を過ごし、15歳からスノーボードを始める。17歳まで続けていたBMXで培ったバランス感覚が功を奏してか、瞬く間に成長。1986年から4年連続で世界チャンピオンに輝き、3度のUS OPEN制覇、バンクドスラロームでも3回優勝を飾るなど、スノーボード界のスーパースターに。しかし競技から引退すると、商業主義になりつつあったスノーボード界から一定の距離を置くようになり、バックカントリーの世界へ進出。カナダ・ブリティッシュコロンビア州のアイランド・レイク・ロッジでガイドカンパニーを共同経営。晩年は同州ボールドフェイスを拠点に活動していた。2003年1月20日、同州レベルストークにて雪崩事故に遭遇し死去。
text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)
translation: Yoshifumi Nomura
CONTENTS
▶CHAPTER 1 BURTONのプロダクトでたどるハードギア42年の歩み
▶CHAPTER 2 クレイグ・ケリーが築いたフリースタイルの世界
▷CHAPTER 3 フリースタイルを創出したトム・シムスの意思を受け継いだ日本人
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BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE
ISSUE 7 「BURTON, SIMS, AND CRAIG KELLY ──フリースタイル温故知新──」
BURTONとSIMS、そしてクレイグ・ケリー──。フリースタイルスノーボーディングがどのように生まれ、ライダーとプロダクトが互いに影響を与えながら進化してきたのか。その系譜を、貴重な写真や当時を知る人物たちの証言とともに紐解いた一冊。1977年から2018年までのBURTONのハードギア42年史をはじめ、クレイグ・ケリーが築いたフリースタイルの世界、トム・シムスの思想とSIMSの歴史を収録している。

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