FEATURE
【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」布施忠インタビュー〈第3章〉新たなるステージへ
2026.07.23
世界に認められた布施忠は、その評価を自分ひとりのものにしなかった。HEART FILMSを通じて日本人ライダーたちの舞台を作り、LSPではウェブ配信という新たな表現方法に挑み、やがて視線を日本の山へと向けていく。現在の日本シーンへとつながる重要な転換点が、この章にはある。
※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
EPISODE 3
新たなるステージへ
「オレは世界への架け橋にしたかったんです。海外でガンガンやって、世界レベルで通用するライダーを目指してほしかった。でも、違ったみたいで……」
結論から述べてしまうと、高すぎる忠の意識はクルーとすれ違っていた。多くの日本人ライダーたちをウィスラーのバックカントリーへ誘い、スノーモービルを駆使して撮影するということは、自身が経験してきた苦労を繰り返すということだった。さらに、28~33歳というプロスノーボーダーとして脂がのっている大切な時期だったはず。
「最近の忠を見ていて思うのは、彼が世界的に有名なMACK DAWGのようなレーベルと再び活動すれば、間違いなく北米でベスト10に入るライダーになるだろう。もちろん、彼がHEARTを通じて、今までのキャリアや経験を日本人の若いライダーたちに伝えていくのは意義のあることだけど、その半面、彼自身のグローバルでの活躍や名声を多少なりとも犠牲にしなくてはいけないのはもったいない」
2007年、当時のBURTONグローバルチーム・ディレクターを務めていたレネ・ハンセン氏はこのように語っていた。だがそれ以上に、忠は日本のシーンに危機感を覚えていたのだ。「このままだと日本は(世界から)置いていかれると思った」とは当時の忠の言葉だが、日本スノーボード界を牽引する立場としての責務だったに違いない。
人生には山もあれば谷もある。HEART時代、プロスノーボーダーとしてのライディングスキルに関しては「伸び悩んでいたかもしれない」と自己分析し、HEARTを通じて得たことは?と問えば「ライダーとしてはあまりなかったと思う」とネガティブな発言を連発する忠。しかし、表現者としての感性は少なからず研ぎ澄まされていたはずだ。
「MACK DAWGと撮影してた頃は、とにかくガムシャラでした。誰にも負けたくないっていう気持ちで、自分のパートをしっかり獲ることだけを考えて滑ってました。BURTONに入ると途中からムービーを作り出したんですけど、ウィスラーでやってた頃に比べても指示通りに撮影することが多かったですね。でも、HEARTを始めてからはBURTONとも撮影はしてたんですけど、自分たちで撮った映像を作品に使ってもらうようにしたんです。画がかぶらないのがすごくよかった。同じポイントに何人かで連れて行かれてジャンプしても、結局は同じような画になるじゃないですか。それがイヤだったし、とにかく自分らしさを出したかった。だから、いろんな場所で、いろんな撮影をやってきました。たくさんの山を見て、ここだったらこういう画が残せるっていうのを想像するのが面白かったですね」
バックカントリーにおける撮影のノウハウは熟知していた。だからこそ、一匹狼で行動したほうが多くのフッテージを残せていたのかもしれない。しかし、日本人クルーを牽引していくことで負担は重くのしかかったのだろうが、映像作品をプロデュースすることや撮影ポイントの選定なども踏まえると審美眼も含め、表現者としての経験値は大きく上がったのではないか。
「今に活かされてる部分はあると思う」
2009年にBURTONを離れYESへ移籍し、2011年にはHEARTから脱退。33歳を迎えた忠は、HEARTでともに活動していたフィルマーの越路太郎氏が主宰するLIFESTYLE PROJECT(以下LSP)に参加することに。同じくHEARTで主力ライダーだったメンバーも加わり、シーズン中の活動を映像化しウェブサイトで発信しながら、これまで同様にDVDとしても制作する流れだ。1作目『POWDER PASSAGE』、2作目『I’VE BEEN WORKING ON THE ROAD』を終え、3作目に突入する際に予期せぬ出来事が。
「誘ってはいたんだけど、それぞれスポンサーの意向とか金銭面とかいろんな理由があって、彼らから離れていきました。本当はシグネチャームービーって好きじゃないんですけど、誰もいないからそうなっちゃいました(笑)。だから、離れていったライダーたちを見返してやる!って強い気持ちが、LSPの原動力のひとつでしたね」
日本人スノーボーダーたちと群れることなく海外で孤軍奮闘し、外国人スノーボーダーと対等に渡り合えるようになってからは彼らと一定の距離を保つようになった。HEARTで5年、LSPで活動をスタートしてから3年目。望んではいなかったものの、再びひとりになった。プロスノーボーダーとしての紆余曲折を経て、ガムシャラに雪上で格闘してきたあの頃のように。
一般的にはネガティブに捉えられるのかもしれないが、表現者・布施忠としては絶好のチャンスだったとも言い換えられる。
「もともとLSPを立ち上げたときから、忠はウェブをメインに映像を配信したいって言ってたんです。でも、これまでの2作品に関してはDVDを優先させて作っていたし、ほかのライダーも参加していたので、作品の尺を考慮すると本当にひと握りの映像しか露出できてなくて。2作目の『I’VE BEEN WORKING ON THE ROAD』の撮影中に忠が、“来年はずっとウィスラーでやりたい”って言ってたのを思い出して、だったらカナダでガッチリやれば彼なら映像をたくさん残せるし、ネットを使って配信すれば多くの人に観てもらえるかもしれないと思ったんですよね。それでシーズン中、2週間に1本のペースで作品を配信していくことを忠と決めました」
2013年にLSPの越路氏に話を伺ったとき、このように説明してくれていた。ライダーひとり、フィルマー兼エディターひとりという、超少数精鋭の撮影クルーが誕生。毎日、未明の3時に起きてストレッチを開始する忠。そして、夜な夜な編集作業に追われながらも早朝4時には起床して準備に取り掛かる越路氏。スノーモービルを駆使すればそれだけのフッテージが残せる自信は双方にあった。ただ、想像を絶するほどのハードワークが待ち受けていたのだ。
現在では主流となっているウェブ配信のムービーシリーズを日本人ライダーとして先駆けて行ったわけだが、その努力は報われた。6回に渡り配信されたムービーは、世界中から好評を博すことに。
「外国人ライダーたちが“お前ら面白いことやってんな! 一緒にやろうぜ”って言ってきたり、同じくウィスラーのバックカントリーで撮影してるスキーヤーのクルーが近づいてきて、“お、忠か!? お前らのエピソードなんとか面白かったぞ!”って声をかけてくれたり。かなりアガりましたね。あと、Facebookでみんなが“いいね!”を押してくれたりシェアしてくれたり、さらに応援のコメントをくれたり、そういうみんなの気持ちが大きかったですね」
さらなる表現方法を模索しながらプロスノーボーダーとして高みを目指す忠だったが、ここでターニングポイントが訪れる。翌シーズンのウィスラーは20数年ぶりの雪不足に見舞われ、2月から東北での撮影を敢行。彼の地元である山形で残された、日本特有のツリーランで地形を活かしながら超高速で駆ける忠のライディング映像は、とても新鮮だった。
これが契機となったのだろう。2014-15シーズンを迎え、大きな決断をするに至った。これまで活動の拠点としてきたカナダではなく、日本をベースに撮影することにしたのだ。
「海外でずっとやりたいと言えばやりたかったんですけど、日本も気になってたんですよね。海外のライダーたちからもかなり注目されてるじゃないですか」
2016年秋に発表されたトラビス・ライス主演による『THE FOURTH PHASE』をご覧いただいた方には説明不要だろうが、そこに映し出された長野・白馬エリアの映像は、日本人スノーボーダーの想像をはるかに超える衝撃的なフッテージだった。こんなスティープな斜面が日本にあったのか──誰もがそう思ったに違いない。この映像を残すために、トラビスらは数年に渡って白馬でシューティングを重ねていた。
「それを(日本人ライダーよりも先に)トラビスにやられてる現状が悔しいですよね。あいつらよりも先に行って、いろいろ(な映像や写真を)残さないと」
また、プロ生活20周年を迎えた2016年の春、忠は次のようにも語っていた。
「長年に渡って活動のベースにしてきたウィスラーの地形と違って、今の拠点である日本ならではの、さらに細かく言えば長野の北信エリアならではの地形で、自分の理想とする滑りを映像や写真として残したいっていう気持ちは強くなる一方です。ただ、カナダも長野も同じようにスティープな斜面はあるけど、向こうは比較的開けているのに対し、こっちはかなりタイトだったりする。事前にイメージしたような画を残すのって本当に難しいことなんです。だからこそ、日本でいいものを残したいっていうのが、そして自分で納得できるものを太郎さんと一緒に残したいっていうのが、今の目標。これまで自分がやってこれなかったことなので、何とかしてやり遂げたいんですよね」
text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)
CONTENTS
Tadashi Fuse
▶EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
▶EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
▶EPISODE 3 新たなるステージへ
▷EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
Shuhei Sato
▷EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
▷EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
▷EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
▷EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
Toshiki Yamane
▷EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▷EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。





