FEATURE
【創刊10周年特別企画】ISSUE 4「スタイルこそすべて」布施忠インタビュー〈第2章〉世界を認めさせた自己表現力
2026.07.22
布施忠がカナダへ渡り、世界の映像プロダクションやスノーボードメディアにその存在を認めさせていく過程は、ひとりのライダーの成功譚にとどまらない。
日本人スノーボーダーが、世界のフィールドで何をどう表現するのか。現在の日本シーンへとつながる原点のひとつが、この章に刻まれている。
※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
EPISODE 2
世界を認めさせた自己表現力
プロ資格を取得したものの、どのようなライダー人生を歩んでいくのか本気で悩み、21歳でカナダへ渡ることを決意。一般的に多くの大学生たちが社会に出るタイミングを待たずして、忠は世界に挑む覚悟ができていた。
しかし、プロスノーボーダーとして潤沢な資金やサポートに恵まれていたのかと聞かれれば、決してそうではなかった。ウィスラーのバックカントリーで本格的な撮影を行うためにはスノーモービルが必要不可欠になるのだが、なけなしの金をはたいて購入した安物が1日で大破してしまうなど、金銭面での苦労は絶えなかったようだ。
このように忠が置かれていた状況とは裏腹に、彼の実力はすでに世界から一目置かれるほどだった。だが、当時契約していたブランドの関係者に舞い込んできたフランスの老舗ブランド・ROSSIGNOLのグローバルチーム・マネージャーからのオファーについて、本人に知らされることはなかったそうだ。
「スポンサーって契約してるライダーのことを応援してくれるもんだと思ってたのに、自分たちの利益のことしか考えてないってことを知っちゃったんです。オレだったら、“お前、世界で頑張ってこい!”って絶対になるはずなのに、そうじゃなかったことがショックでした。ほかに契約してたブランドも同じ感じで……。応援してくれるスポンサーがまったくなかった」
少し回り道を強いられたが、ROSSIGNOLとのコンタクトに成功してグローバル契約を締結。当時の日本人スノーボーダーとしては異例の出世である。ようやくスタート地点に立つことができたのだ。
「同じROSSIGNOLのライダーだったJF(ペルシャ)に忠の話をしたら、“そいつ、すごいのか?”ってことになって。大会で観てた連中もいたのかな、忠のことを。“あいつはヤバいよ”ってことになって(山に)連れてこいっていうような感じで、どんどんどんどん撮影にハマっていった」
先に紹介した20周年記念ムービーで丸山氏が語っている言葉なのだが、ここでいう大会とは恐らく、前章で紹介したビデオ『PASSOR』のエンディングに収録されているスペインでの都市型ビッグエア大会のことだろう。後に東京ドームで開催されていたX-TRAIL JAMなどに出場するが、それらはスポンサーの意向だったため、事実上、自らの意志で出場した最後の大会。これが契機となり、競技生活からは完全に足を洗って表現者として生きる道が切り拓かれていくことになるのだから、人生面白いものである。
「かなり濃い生活を過ごしてました。あの頃はものすごく(精神状態が)ピリピリしてましたね。毎日のように山に行って、戻ってきたらジムでトレーニングして。とにかく外国人ライダーに負けたくないってことだけを考えてました。基本的に、日本人やアジア系はナメられてたと思いますよ。しかも、オレは英語が喋れなかったから、その分、酒を飲んでコミュニケーションをとろうとしてましたね(笑)。雪上では、やる気のある姿勢をあえて見せるようにしてました。例えば、デカいジャンプだと飛距離とか読めないから、最初に誰が飛ぶのか?って話になるじゃないですか。そういうときは、“オレが飛ぶ!”みたいな感じで。ああいう撮影の場合って最初に誰かが一発決めたら、大体そいつのペースになるんですよ。撮影の主導権を握れるんです。だからこそ、自分から積極的にポイントを決めて撮影をするとか、そういう行動力がすごく大事。誰かの後をついていって、その誰かの後から飛ぶような感じだと、何かペースを握られちゃうんですよね」
物怖じしない積極性。その積極性を示すための滑走力。どちらかでも欠落していたら、現在の布施忠は存在しなかったはずだ。言葉がしっかりと通じない状況で、しかも、それが経験の浅いバックカントリーという命を落としかねないフィールドにも関わらず、忠は躊躇しなかった。「どうやったら世界レベルに食い込んでいけるのか」と自問自答を繰り返しながら、バックカントリーにおける知識を深めながら見聞を広げることはもちろん、撮影に対する取り組み方や姿勢、外国人特有のメリハリのある行動力、何度も転げ落ちて体得したスノーモービルの運転技術、そして肉体改造など、プロスノーボーダーとして、いち表現者として学び続ける日々を過ごした。尻込みしている時間など微塵もなかったのだ。
「“今日はやめっかなー”みたいな甘えって、少なからず人間にはあると思います。でも、そういうのを一切なくして、“やると決めたらやる!”って気持ちだけで突っ走ってきました。一日一日を大切にしよう。一日一日で何かを学んでいこう。そういう意識が強くあって」
「忠がカナダで撮影してた最初の頃なんてさ、下手したら朝から晩まで(やってた)。休む間もなくメシ食ったら、次のポイント、次のポイントって。それってプロ意識もあるし、いつ雪降らなくなってコンディション悪くなるかもしれないっていうのをわかって動いてたと思うんだよね。実際に身体が疲れたなって思っても、常に新しいポイントで最初に飛ぶのは忠だし。そしたら、ついていくしかないでしょ」
忠を自己表現の世界へ誘った平岡がプロ20周年記念ムービーで発している言葉なのだが、まさしくこういうことだ。常に学び、自らを追い込み続ける毎日。さらに言えば、目標設定が高かった。
「マルさんとはまったく慣れないモービルに乗って、ひたすら山奥での撮影を繰り返してましたね。ふたりでケンカをしまくりながら、何とかしてUSトランス(ワールド)のカバーを獲ろうって必死でした」
念のため説明しておくが、米カリフォルニア州に位置する世界最多の発行部数を誇るスノーボード専門誌「TRANSWORLD SNOWBOARDING」の表紙のことである。その夢はカナダへ渡り苦節7年──2006年10月号で実現した。もちろん、日本人スノーボーダーとして初の快挙。だがそれ以前に、世界中に自身の存在を示すだけの大きな金字塔を打ち立てることになる。
ご存知の読者諸兄姉も多いことだろう。2003年、世界トップの映像プロダクションとして周知されていたMACK DAWG PRODUCTIONS作『SHAKEDOWN』において、日本人スノーボーダーとして初となるビデオパートを同プロダクションで獲得するという偉業を成し遂げた。これを例えるなら、メジャーリーグベースボールで日本人選手がオールスターゲームに選出されるといったところか。余談になるが同年、イチローと松井秀喜がファン投票で選ばれている。
さらに2004年、ウィスラーを拠点として北米だけでなく欧州のトップライダーも多数抱えていたWHITEOUT FILMS作『POSITRON』でトリを飾ったのだ。およそ3分間に渡るフルパートには、紛れもなく世界トップクラスのフッテージが凝縮されていた。しかも、デバンのパートから続く形でのトリ。
思えばこの時点からおよそ5年前、デバンの滑りを観たことで焦りを覚えたところからすべてが始まっている。その間、休むことなくガムシャラに走り続けた結果として、欧米が中心のフリースタイルスノーボーディングの世界にも関わらず、ナメられていたはずの日本人が実力でその存在価値を認めさせたわけだ。
「このくらいの頃にはかなり慣れてきていて、誰にも頼らずに自分だけでモービルに乗りながらポイントを探してました。なぜかって、JFを中心とするウィスラーにいた海外ライダーたちは、あまり冒険しなかったんですよね。毎年知ってるポイントで、この時期にはここだっていうのを大体把握してるから、毎年同じようなロケーションで撮影してて。オレはそれに飽きちゃってたから自分で(撮影ポイントを)探すようになりました。それからは(外国人ライダーたちと)あまりツルまなくなったんですよね」
ウィスラーという世界有数のバックカントリーで撮影のノウハウを吸収し、世界トップクラスのライダーたちと対等に渡り合えるまでに成長した忠は2004年、業界最大手ブランドであるBURTONのグローバルチームに招聘された。しかも、自身のシグネチャーモデルのリリースが日本人として初めて許されたのだった。飛ぶ鳥を落とす勢いとは、まさにこういうときに使う言葉なのだろう。
「海外のヤツらとツルんで撮影するのは面白かったんですけど、自分の個性的な滑りを発信したい気持ちがどんどん強くなってきて。同じポイントで毎年画を残すんじゃなくて、新しいロケーションを開拓しながらやっていきたいと思ったんです。バックカントリーでの大体のことは自分だけでできるようになってたこともあったから、HEART FILMSを始めたんですよね」
この頃から、ライディング映像や写真を残すことは自身の表現方法であり、“作品”として捉えていたのだろう。だからこそ、最高級のパフォーマンスを繰り出すことは当然ながら、背景となるロケーションにも人一倍こだわるようになっていた。
また、表現者として生きていこうと決意したとき、そこに日本人としての前例はなく、出口のわからない茨の道を傷だらけになりながら切り拓いてきた道のりに、日本人スノーボーダーが誰もついてきていないことに気づく。ようやく世界の頂に登り詰めた矢先ではあったものの、自らアーティストとして自身の作品を発信するだけにとどまらず、世界で戦うための舞台を日本人ライダーのために用意するとともに、日本のスノーボードシーンを世界中に表現しようという挑戦に打って出ることになる。2006年、28歳の冬だった。
text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)
CONTENTS
Tadashi Fuse
▶EPISODE 1 命と引き換えに教えられた生きる道
▶EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
▷EPISODE 3 新たなるステージへ
▷EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
Shuhei Sato
▷EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
▷EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
▷EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
▷EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
Toshiki Yamane
▷EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
▷EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
▷EPISODE 3 自由のために戦う生き方
▷EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
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本記事は、2017年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 4「Style is everything──スタイルこそすべて──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、本号の中核を成す布施忠、佐藤秀平、山根俊樹の3つのストーリーを全12回にわたり公開していく。スノーボードにおける“スタイル”とは何か。紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2017年当時の日本のスノーボードシーンの空気感も感じとってもらえれば幸いだ。





