FEATURE
【創刊10周年特別企画】ISSUE 2「フリースタイルスノーボーディングの本質」〈第1章〉偶発的に出会った生涯の乗り物
2026.06.15
※2016年に綴った言葉をそのまま掲載
はじめに
「フリースタイルが足りない」
ここ数年に渡り、ずっと思い続けてきたことである。
スノーボードって、もっと自由でカッコよかったはず。
だから、人生をかけるほどの価値を見出すことができた。
では、なぜフリースタイルが足りないのか。
オリンピック種目になったから?
スノーボーダーが高齢化したから?
どちらも当てはまらない話ではないが、正解でもない。
時代の流れとともに、環境が著しく変化したからだ。
語弊を恐れずに綴らせていただくならば、
道具や遊び場が劇的な進化を遂げたことで、
人間の動物的な本能や勘が鈍っているのではないか。
整備の行き届いたフィールドで技術を追求することも必要だが、
自然地形を活かして本能の赴くままに滑る面白さを忘れてはならない。
1992年の冬にスノーボードを始めた当時、
その勘を研ぎすませながらヒットポイントを探したものだ。
そうしなければフリースタイルに遊ぶことができなかったから。
あの頃はあって、今に足りないもの。
だから、探ることにした。
フリースタイルスノーボーディングの本質を。
BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE
編集長 野上大介
FEATURES
フリースタイルスノーボーディングの本質を探る
植村能成

「滑ること以外は何も考えてやってこなかった」
過去に幾度となく語られてきたインタビュー記事を読み返しても、ほとんどの媒体でこのように語ってきた、日本スノーボード界の草分けである植村能成(以下ウエ)。サーファーでもスケーターでもない生粋のスノーボーダーとして、本能が赴くままに滑り続けてきた。その25年を越えるキャリアのなかで、彼は繰り返しこうも話していたことを思い出す。
「常に上手くなりたい」
その強き想いがあってこそ、今なおトップライダーとして君臨しているのだ。あえて断言する。ウエというスノーボーダーの歩みは、そのまま日本のフリースタイルスノーボーディング史になぞらえることができる、と。まだ、スノーボードが日本に浸透していなかった1990年の冬。その存在すら明確に知らなかったウエはスノーボードと出会い、フリースタイルの夜明けとともにその世界観に魅了され、すべてを吸収しようと滑り続けた。そして、プロスノーボーダーとしての歩みをやめることは決してしない。
ここではウエのスノーボード人生を紐解くことで、日本フリースタイルシーンの原点から現在に至るまでをたどり、その本質を探ることにする。
CONTENTS
Yoshinari Uemura
▶EPISODE 1 偶発的に出会った生涯の乗り物
▷EPISODE 2 “上手くなる”と誓った先に見えたプロへの道
▷EPISODE 3 あらゆる時代の滑り方が融合されたスタイル
▷EPISODE 4 バックカントリーを極めた末の原点回帰
▷EPISODE 5 フリースタイルスノーボーディングの本質とは?
Kohei Kudo
▷EPISODE 6 幼少期に育まれたフリースタイルマインド
▷EPISODE 7 ライディング&エディットに垣間見えた古き良きスタイル
▷EPISODE 8 競技スノーボードに足りないフリースタイル力
▷EPISODE 9 ライディングスタイルに映し出される生き方
EPISODE 1
偶発的に出会った生涯の乗り物

1972年、北海道・札幌生まれ。豪雪地帯にも関わらず、現在ではおよそ200万人が生活を営んでいる、人類社会が始まって以来の“豪雪の大都会”と呼ばれる札幌の急成長とともに、ウエは育ってきた。今となっては世界中のスノーボーダーが羨む環境に身を置いてきたわけだが、高校3年に至るまで、スノーボードの存在は知るよしもなかった。それはウエが生まれた頃に、スノーボードもまた産声を上げたばかりだったから。
スノーボードの起源における諸説はさまざまだが、一般的には、1965年にアメリカのシャーマン・ポッペンが娘へのクリスマスプレゼントとして子供用のスキーを2本のボルトで留めて作ったことにヒントを得て開発した、SNURFER(スナーファー)と名づけられた子供用の雪上玩具とされている。また、1963年に同じくアメリカで、後のSIMS創業者となるトム・シムスが13歳のときに、木工の授業で単板の底に滑走材となるブリキを貼りつけてオリジナルのボードを製作したことが起源、との見方もある。
その後、70年代に入ると、最古のボードブランドと言われるWINTER STICKが1972年にディミトリー・ミロビッチによってアメリカ・ユタ州で設立され、1976年にはアメリカ・カリフォルニア州にて前出のシムスがSIMS SNOWBOARDSを立ち上げた。そして1977年、14歳の頃にSNURFERからインスピレーションを受けたジェイク・バートンは、アメリカ・バーモント州にてJAKE BURTON SNOWBOARD(現BURTON)をローンチ。
こうした動きはアメリカだけにとどまらず、1971年、MOSS SNOWBOARDSの創始者である田沼進三は、サーフボードのウレタンフォームとグラスファイバーを使用したプロトタイプとなるボードを製作。新潟・妙高高原赤倉にて試乗を行っていたのだ。
このように、世界同時多発的にスノーボードの原型が誕生し、試行錯誤が繰り返されるなか、ウエは冬になれば当たり前のようにスキーで雪山を滑り、小学校時代は野球、中学校時代はバスケットボールに精を出す、ごく普通の少年期を過ごしていた。だが、中学3年でギターに目覚めると、ウエのなかで何かが覚醒した。ヘビーメタルバンドを組み、高校に進学するとパンクに転向。何度もライブを行う傍らでバイクにまたがるようになり、街や峠を疾走していた。
音楽とスピードに魅了されていた高校3年の冬。1990年の出来事だ。車の免許を取った友人がいたことから、高校の仲間たちとドライブに行くことになった。北海道の冬であればスキーで間違いない。本気で取り組むことはなかったものの、スキーの腕前も確かだった。しかし、それほど親しくなかったクラスメイトがスノーボードを持っているという情報を小耳に挟むと、ウエはすぐさま反応し、行動に移した。
「そんなに仲良くなかった友人なんだけど借りられることになって、前日の夜に板とブーツを取りに行きました。それまでスノーボードをやってる人は見たことがなかった。小学生のとき、毎週のようにオジさんがスキーに連れていってくれてて、ニセコかどっかへ行ったときに、スノーボード“らしき”ものは1回だけ見たことがあったんですよ。スノーボードの形じゃなかったけど横乗りで、板の上にもう一枚板があるような感じのものだった」
スノーボードに限った話ではないが、その存在を認知していて、それに対するイメージを自らに重ね合わせることで“やってみたい”という動機づけになるのが一般的だろう。だが、スノーボードという存在がまだ社会に浸透していなかったこの時代。その日進月歩の成長過程において、一度だけウエの前に姿を現していたということだ。スノーボードの“ようなもの”が誕生してから約20年の時を経て、パンクとバイクを愛する18歳の少年は、見たこともないスノーボードにその“ニオイ”を感じたのだ。
「スケートボードみたいな感じなんだろうと思ってました。まったく知らなかったけど、とにかくカッコいい乗り物なんだろうなって」
初めてのスノーボードはハイクアップから始まった。子供たちがソリで遊ぶような初心者コースで登っては滑り(転び?)を繰り返し、子供にぶつかりそうになってはその父親に怒鳴り散らされ、逆エッジにもめげず、本能だけで滑り続けた。もう1本行こうとするも、仲間たちが帰ろうと声をかけてきたので終了。ただ、小さくない手応えを感じていた。
「翌日、学校へ行くと、同じクラスの友達が“ウエラン(当時のニックネーム)、スノーボードやったんだって?”って話しかけてきたんですよね。そしたら、迎えに行くから一緒に行こうってなって。それが井沢貞登。オレよりも2年くらい先にスノーボードをやってたから、彼はその頃出てたビデオをたくさん持ってた。学校が終わったら一緒に滑りに行くことになって、そのときに“これ観なよ”ってビデオを持ってきてくれたんです。それが、クレイグ・ケリーが出てた『BOARD WITH THE WORLD』(ADVENTURESCOPE FILMS/1990年)ってビデオ。それ以降、そのビデオを観まくっては、学校が終わったらナイターで毎日滑るようになった。いきなりどハマりでしたね」
井沢といえば、90年代の北海道を代表するライダーのひとりである。偶然にも同じクラスに、当時はほとんどいなかったスノーボーダーの先輩がいた。スキーウエアを身にまとい、クラスメイトに借りたボードにまたがり、ただし、観ているものはスノーボード界のパイオニア、クレイグの滑りだった。
「その時点で、井沢はかなり上手かった。オレは上から下まで転ばないで下りてくるのがやっとの状態だったから、どうやったらそんなに上手く滑れるのかって、いろいろ聞いてましたね。クレイグみたいな感じで気持ちよさそうに滑ることを目標に掲げてたから」
クレイグと同じように滑りたくて、彼のシグネチャーボードを購入。井沢に借りていた『BOARD WITH THE WORLD』を一日に何度も観ては、毎日雪山に通った。ビデオと同じようなシーンに遭遇したときは、そこで流れていた音楽を口ずさみながら滑る日々。
「付属の高校だったから大学進学も決まってたし、休まず毎日滑ってたかな。やっと気持ちよく滑れるようになってきてからは、とにかくジャンプがしたかった。コースの端のほうにリップだけ作って、着地はフラットみたいな、昔よくあった感じのヤツですね。毎日のようにナイターに行ってたけど、コース脇は圧雪が入らないからほとんどの日がパウダーで。パウダーを滑るのって難しいじゃないですか。だから、せっかくジャンプ台を作っても、そこまでたどり着けないっていうのを何回も繰り返してましたね(笑)」
現在のように飛ぶためのパークが用意されているわけではなかったため、“飛びたい”という欲求だけで、圧雪の入らない不整地をひたすら滑っていたウエ。もちろん、ゲレンデ内の地形を活かして、飛べるところがあれば無心にジャンプを繰り返した。
「そこら中に雪がたくさんあるから、公園にもジャンプ台を作って飛んでた。一日に100回くらいトゥイークを練習したり(笑)。その頃からビデオも撮ってて、帰ってから自分たちの滑りを見ながらやってましたね。とにかく、ビデオの世界に憧れてたんだと思う。ビデオに入ってる音楽を集めたりして。井沢がそういうのも大好きだったから、全曲調べてまとめて買い漁ってました。その曲を使って映像を編集したりしながら、どっぷり(スノーボードの世界に)浸かっていった感じでしたね」
付属高校だったため井沢とともに大学に進学すると、冬はボードを持参して学校に通い、授業が終わると裏山にジャンプ台を作って飛びまくった。スノーボード1年目と同様に定山渓に位置する札幌国際で滑り込み、クレイグのような滑らかなライディングスタイルを目指していた。
こうして、ウエのスノーボード人生は、クレイグという憧れの存在と、井沢という同級生でありながら熟知している先輩スノーボーダーにより、本格的に幕を開けたのだ。現在のような多岐に渡る情報やパークなどの環境はなかったが、そこには、フリースタイルスノーボーディングにかける情熱があった。
text: Daisuke Nogami(Chief Editor)




