FEATURE
【創刊10周年特別企画】ISSUE 5「夢への歩み」平野歩夢インタビュー〈はじめに〉
2026.08.07
19歳の平野歩夢は、何を背負って平昌五輪へ向かおうとしていたのか。
2026年の今、私たちはその後の歩みを知っている。しかし、このインタビューが行われたのは平昌五輪開幕直前。まだ誰も、その先に待つ結末を知らなかった頃だ。
銀メダリストとして追われる立場となり、さらなる進化を求められる日々。その胸には、勝ち負けだけでは語れない葛藤と覚悟があった。
創刊10周年特別企画 ISSUE 5では、2018年当時のロングインタビューを軸に、ひとりのスノーボーダーが「夢」と「自由」の狭間でもがきながら歩んだ軌跡を、当時の空気感をできる限りそのまま残しながらお届けする。
※以下、2018年に綴った「はじめに」をそのまま掲載
はじめに
4年に一度のウィンタースポーツの祭典がいよいよ始まる。2018年2月9日、韓国・平昌にて開幕する第23回オリンピック冬季競技大会。フリースタイル競技としては、1998年の長野五輪から正式種目として採用されたハーフパイプを筆頭に、2014年のソチ五輪からスロープスタイルが、そして平昌五輪からビッグエアが正式種目として追加され、今では冬季オリンピックを代表するスポーツのひとつとしてスノーボードは世界中から大きな注目を集めている。
我が日本では、4年前のソチ五輪において日本スノーボード史上初のメダリストがふたり揃って誕生したことで、日本中にクールな中学生と高校生の存在が知れ渡っていった。言わずもがなだが、銀メダリストの平野歩夢と銅メダリストの平岡卓である。それと同時に、競技としてのスノーボードが市民権を得るに至ったわけだ。
その確固たる証として、TBSでは2014年からX GAMESアスペン大会を毎年放送し、テレビ東京では2年に一度行われるFIS(国際スキー連盟)世界選手権を2015年と2017年に放映した。地上波でスノーボード競技が放送される時代に突入したのだから、前述したことが誇大表現ではないことを理解いただけるだろう。
しかし、スノーボードにおける競技はあくまでもほんの一部にすぎない。1970年代に産声をあげたスノーボードは、80年代まではコンテストが中心だったのだが、当時の世界王者だった故クレイグ・ケリーはいきなり大会から身を引き、バックカントリーへ足を踏み入れた。フォトグラファーやフィルマーらと行動をともにするようになり、雑誌の表紙やテレビコマーシャルに登場。スノーボーダーの表現力を映像や写真に収めて世に発信するという新たなる価値をシーンに提唱したのだ。
こうしたアイデンティティは今日まで受け継がれており、競技性よりも表現力を重んじる文化価値が定着。スノーボードは他スポーツとは一線を画する格好で、90年代に入ると急成長を遂げていくことになる。それに伴って、ライダーたちは“自由”を獲得したのだ。
反するように、オリンピック競技はスノーボードの歴史や文化に相容れない形で誕生し、その歪みはいまだ解消されていない。詳しくは後述するが、スノーボードがオリンピック正式種目として採用される際、IOC(国際オリンピック委員会)は当時スノーボード競技を統轄していたISF(国際スノーボード連盟。現在は解散)ではなく、FISにスノーボード競技を託したことに端を発している。
こうしてスキーのいち種目として開催されることに中指を立てた、当時のハーフパイプ世界王者として君臨していたテリエ・ハーカンセンが長野五輪をボイコットした話は有名だ。
しかし、月日を重ねるごとにオリンピックはライダーたちにとって目標であり“夢”に変わった。テリエと同じくノルウェーに出自を持つ、現在ではバックカントリーの世界で活躍中のミッケル・バングは、ソチ五輪出場は叶わなかったもののその舞台を目指したひとりだ。
「以前まではオリンピックは目指さないスタンスだったけど、あるときに“目指してもいいんじゃないか”という考えに変わったんだ。ライダーとして高みを目指すチャンスでもあるし、自分が望む決断を下すためにも役立つはずだから」
オリンピック前にこうしたコメントを彼は残していた。ミッケルが8歳のときに長野五輪が開催されていたので、記憶にもあるだろう。自国の先輩スノーボーダーでありスーパースターはいまだオリンピックに賛同していないにもかかわらず、である。現在のコンペティターたちは、その当時の話をリアルタイムでは知らない若年層が多いわけだから、なおさらだ。いまだ歪みはあれど、オリンピックは世界最高峰の大会として世界中のスノーボーダーが憧れる舞台と化したのだ。
各国でそのメダルが意味する価値に違いはあるが、名誉のため、業界のため、将来のため、家族のため……あらゆる想いが渦巻く中で、フリースタイルスノーボーディングは急激な進化を遂げている。技術志向が強まり、勝つためのトリックを修得するには雪上だけでは不可能になった。
フランスのエクストリーム・スノーボーダーとして知られるザビエル・デ・ラ・ルーは、オリンピック競技であるスノーボードをこう揶揄していた。
「フリースタイルは本当にテクニカルになった。ものすごく細かいディテールにまで注意を払って、ひとつのランを完成させるために1シーズンを費やしてるようなもの。そのために同じジャンプを何ヶ月も飛んでるわけでしょ」
今号の主人公である19歳の歩夢は、長野五輪が開催された1998年に生まれた。トリノ五輪で金メダルを獲得したショーン・ホワイトに憧れを抱き、幼き頃からトレーニングに明け暮れる日々。そこに前述したような自由はなく、むしろ“制約”のほうが強かったと言える。
だからこそ、ソチ五輪でメダルを手繰り寄せることができたのかもしれないが、その代償はスノーボーダーとして大きかった。さらに、スキーヤーとのはざまにあるいびつな状態に身を置きながら、命を落とすかもしれないリスクと戦いながら滑り続ける意義とは。
それは、幼い頃に抱いた夢だからという単純な話ではない。銀メダルを獲った人間にしか見えない、新たな夢に書き換えられたことで芽生えた決死の想いがあるからだ。
「自由を求める順番が違うだけ」と言い切る歩夢の生き方には、19歳とは思えない壮大な覚悟を感じることができる。あらゆるものを背負い込んだ彼の目には、いったい何が映っているのか。前例のない、日本人スノーボーダーとしての“夢への歩み”を追うことにした。
BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE
編集長 野上大介
CONTENTS
▶INTRODUCTION はじめに
▷EPISODE 1 オリンピック競技とスノーボード文化のはざまで
▷EPISODE 2 スキー連盟に属するスノーボーダーの葛藤
▷EPISODE 3 ケガの功名
▷EPISODE 4 考えて勝つ
▷EPISODE 5 4年前と同じ気持ちで
▷EPISODE 6 家族の想いを胸に
▷EPISODE 7 最後に後悔しないために
___
本記事は、2018年発行『BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE ISSUE 5「WALK TO THE DREAM ──夢への歩み──」』より抜粋掲載。創刊10周年特別企画では、平昌五輪までの4年間、「金メダルしかない」と自らを追い込み続けた平野歩夢の歩みを、全8回にわたり公開していく。2017年3月の重傷から復帰し、同年12月にはコンテスト史上初となるフロントサイド・ダブルコーク1440を成功させるなど、世界の頂を射程圏内に捉えていた19歳当時の葛藤と覚悟を、紙媒体ならではの写真表現や誌面デザインとともに、2018年当時の空気感も感じとってもらえれば幸いだ。




