BACKSIDE (バックサイド)

BACKSIDE (バックサイド)

https://backside.jp/10th-anniversary-archive_13/
44639

FEATURE

【創刊10周年特別企画】ISSUE 2「フリースタイルスノーボーディングの本質」〈第2章〉“上手くなる”と誓った先に見えたプロへの道

2026.06.16

  • facebook
  • twitter
  • google

CONTENTS

Yoshinari Uemura

EPISODE 1 偶発的に出会った生涯の乗り物
▶EPISODE 2 “上手くなる”と誓った先に見えたプロへの道
▷EPISODE 3 あらゆる時代の滑り方が融合されたスタイル
▷EPISODE 4 バックカントリーを極めた末の原点回帰
▷EPISODE 5 フリースタイルスノーボーディングの本質とは?
 

Kohei Kudo

▷EPISODE 6 幼少期に育まれたフリースタイルマインド
▷EPISODE 7 ライディング&エディットに垣間見えた古き良きスタイル
▷EPISODE 8 競技スノーボードに足りないフリースタイル力
▷EPISODE 9 ライディングスタイルに映し出される生き方
 
※以下、2017年に綴った言葉をそのまま掲載
 
 
EPISODE 2

“上手くなる”と誓った先に見えたプロへの道

“うちの板に乗らない?”
 
1992年、大学2年の冬。スノーボード3年目に突入するや否や、ゲレンデでスカウトされたウエ。
 
「そのシーズンが始まったときには、井沢はショップからスポンサードされてたんですよ。でも、スポンサードされる理由とか意味はよくわかってなかった。そんな状態だったんだけど、中山峠で滑ってたら声をかけられて。どうやらタダで板をもらえるって話みたいで、”ください!”って即答しましたね(笑)。よくわかってなかったけど、もらえるってことだけで興奮したのを覚えています」
 
ウエは、決して自分のことを誇示しない。クールな見た目とは裏腹に、とてもナチュラルな人間だ。だからこそ自らを美化して語ることはしないのだが、2シーズンほぼ毎日フリーライディングに明け暮れてきたことで、かなりの滑走技術を体得していたのだろう。そもそも、知っているスノーボーダーは井沢しかおらず、比較対象となる人をゲレンデで見かけることすらなかったので、己の力量を測る術もなかったのだが。
 
「そのシーズン、井沢はハーフパイプの大会に出るような感じだった。パイプの存在は知ってたけど、自分が大会に出るってこと自体がピンとこなくて……。板をもらってるから何かしら宣伝しなきゃいけないんだろうなとか、恩返しするのは当たり前だよなって気持ちはあったので、スポンサーからは何も言われてなかったけど、パイプを練習するようになりました。そのとき、札幌国際で毎日のように滑っていてもスノーボーダーを見かけない理由がわかった。当時いたスノーボーダーのほとんどが、みんなパイプにいたんですよ。間近でパイプの滑りを見るのは初めてだったから、みんな上手すぎてビビりましたね。あんなに上手くなるのは無理だろうなって」
 
前章で述べたように、ウエが生まれた頃にスノーボードの“ようなもの”は誕生したわけだが、もともとは雪上でマニューバーを描くことを目的として開発が推し進められていた。このようにサーフィンからの影響が大きかったことから、ボードの形状も現在のようなノーズとテールの形状が近しいものではなく、サーフボードを原型に雪上用として進化を遂げたディレクショナルボードが主流だった。
 
1977年に創設されたBURTONが日本にも輸入されるようになった1982年、JSBA(日本スノーボード協会)が発足し、1983年には秋田・大仙の協和にて第1回JSBA全日本スノーボード選手権大会が開催。以降、1989年の第7回大会まではスラロームやダウンヒルなどのアルペン競技のみで行われていたのだが、1990年、ウエがスノーボードと出会う1シーズン前からハーフパイプ競技が追加。アメリカでは、WORLD SNOWBOARDING CHAMPIONSHIPSやUS OPENといった大会でハーフパイプ競技はすでに開催されており、ウエが毎日のように観ていた『BOARD WITH THE WORLD』にも、クレイグがパイプの大会で宙を舞う映像が収録されていた。
 
翌1991年になると、欧州、北米、日本の5カ国により、“スノーボーダーのためのスノーボーダーによるスノーボーダーの連盟”という理念のもとにISF(国際スノーボード連盟)が発足し、公認の国際大会が各国で行われるようになる。スノーボードという独自のスポーツが世界的に確立したことを意味し、そのISFにはJSBAが加盟していた。アルペン競技だけでなく、ハーフパイプというフリースタイル種目の世界一を目指すシステムが誕生して間もない頃だったこともあり、当時のフリースタイラーたちはパイプに集結して切磋琢磨していたわけだ。
 
「フェイキーで滑るってことも知らないレベルだった(笑)。反対向いてあんなに長く滑ってるよって驚いてたくらい。そしてパイプを練習するために、旭川のカムイスキーリンクスに行くようになったんですよね。大会をやれるクオリティのパイプがあって、そこで、ほとんどのライダーたちと出会いました。全国各地からアマチュアも集まってきてたから、パイプにはすごい行列ができてた。ビビりながらやってたこともあって、みんなが3本くらい滑ってるのに1本しか入れないような感じで」
 
「技術はまったくなかったけど、滑りを抑えられてなかったせいか、スピードと横に飛ぶ距離だけは誰にも負けてなかったですね。“横っ飛びくん”って呼ばれてたくらい(笑)」
 
やはり、フリーライディングで培った技術の賜物なのだろう。すでにプロとして活動していたスノーボーダーを含めたなかでも、一目置かれる存在だった。JSBAの北海道地区大会(B級)とC級大会(ショップ主催など)の区別もつかないレベルだったが、あらゆる大会に出場した。
 
「強烈なキャラクターの人たちがいっぱいいて、いろんな面白い人たちに会えることが楽しかった。ウエアの選び方ひとつとってもカッコいいなって。そういうのを勝手に理解しながら、スタイルとはどういうものなのかを吸収していった感じでしたね」
 
もともと競い合うことが好きではなかったウエだが、自らの世界観が広がっていくことが面白かったのだろう。こうしたモチベーションの高さもあって転戦を繰り返し、3月を迎える頃には上位に名を連ねるまでに成長していたのだ。
 
「上手くなってる実感が湧いてきた頃、井沢が全日本学生選手権(JSBA会員の学生であれば誰でも出られる地区大会と同ランクのコンテスト)があるから出ようよって誘ってくれたんですよ。その大会すら知らなかったけど、一緒にフェリーで本州に行って。そのときに、井沢がプロを目指してるってことがわかった。オレは目指してないっていうか、プロになれるなんて思ってもいなかったし、なり方すら知らなかったから。それで学生大会に出てみたら、“あれ? これ普通に滑ったら優勝できるかも”って思ったんですよね。そしたら優勝しちゃって」
 
この頃の規程としては、JSBAの各地区大会での優勝者、もしくは全日本選手権の10位以内に入った者に、同協会のプロ資格が与えられていた。学生選手権は地区大会と同等レベルの扱いだったため、この時点でウエはプロ資格を獲得していたのだ。
 
「そんなこと知らなかったし、誰も教えてくれなかった(笑)。それで全日本(選手権)の出場権をもらえたことだけはわかってたから、井沢と一緒に出たんですよね。長野の御岳(ロープウェイ)で、今までのスノーボード人生で滑ったことないってくらいのアイスバーンだった。スケートリンクみたいな(笑)。上手い人がたくさんいたのはもちろん、スタイリッシュな人が多かったですね。途中でハンドプラントを入れてきたり、バギーパンツを穿いてるような感じ。そんななかで、まさか優勝できるなんて思いもしなかった」
 
とんとん拍子すぎて少し理解に苦しむ話だが、競技を始めてすぐにアマチュア日本一となり、プロ資格を獲得したのだ。そのステージを目指すこともなく、計画的に練習をしていたわけでもなかったが、ただ単純に“上手くなりたかった”ことは間違いない。もちろん、センスもあったのだろう。ただし、推論になってしまうが、パイプの練習を始める時期がもっと早かったり、クレイグのビデオと出会っていなかったら、ウエのスノーボード人生は違っていたのかもしれない。毎日、あらゆる雪質や地形を滑り込んだ日々があってこそ、全日本選手権を制するだけの基礎ができあがっていたということだ。
 
「環境がとてつもなくよかった。スノーボードを始めたら、次の日に迎えに来てくれて、しかもビデオまで持ってきてくれて。井沢が師匠じゃないけど、ライバルじゃないけど、ああやって滑れたらいいなってお手本が目の前にあって、そのレベルがいきなりすごく高かったんだと思います」

text: Daisuke Nogami(Chief Editor)

___
 
ISSUE 2
「THE ESSENCE OF FREESTYLE SNOWBOARDING ──フリースタイルスノーボーディングの本質──」

 

 
スノーボードは、もっと自由でカッコいいものだったはずだ。
道具や環境が進化した現代だからこそ、自然地形を活かし、本能の赴くままに遊ぶ面白さを見つめ直したい。
ISSUE 2で特集した植村能成と工藤洸平の生き様を通して、その本質を探る。

RECOMMENDED POSTS