BACKSIDE (バックサイド)

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MAGAZINE

弊誌 ISSUE 4「スタイルこそすべて」第1章【全文公開】

2018.10.11

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代官山 蔦屋書店にて弊誌初となる実店舗販売がスタートしたことを受け、2016-17、2017-18の2シーズンに渡り発刊してきたISSUE 1~6のうち、写真集であるISSUE 6を除いた5号分の第1章に綴った全文を日替わりで公開。

 

TadashiFuse

 

布施 忠
表現者として貫き通す己のスタイル

世界最高峰のムービープロダクションで日本人初のビデオパートを獲得し、世界でもっとも権威あるブランドから日本人で初めてシグネチャーボードをリリースするなど、グローバルのトップレベルでアジア人スノーボーダーが通用するということを証明した男。それが布施忠である。その後は國母和宏(1988年生まれ)や平野歩夢(1998年生まれ)といった“10年にひとり”の逸材たちが誕生し、世界という大舞台で活躍しているわけだが、忠が先頭を切って歩んできた道のりは決して平坦なものではなかった。だからこそ、彼は誰よりも努力した。茨の道を掻き分けながら休む間もなく邁進し続け、冒頭で述べた前人未到の快挙を成し遂げてきたわけだ。その領域にまで上り詰めた原動力とは、いったい何だったのか。己のスタイルを貫き通しながら自己表現を続ける、忠の胸中に迫る。

 

TadashiFuse_episode1

 
EPISODE 1

命と引き換えに教えられた生きる道

 
 奇しくもスノーボードがオリンピック種目として採用された1998年、忠は競技生活に別れを告げ、ライディング撮影を通じた自己表現の面白さに目覚めることになる。スノーボードを始めて5年、プロスノーボーダーとして歩み始めてから3年目のことだった。
 
 たった2年でプロ昇格を果たし、さぞや順風満帆なデビューを飾っていたのかと思いきや、実のところ、この時代がプロスノーボーダーとして最大の難所だったのだ。彼を語るうえで外すことのできない、大きなターニングポイントがここにある。
 
 「16歳のときに地元の山形蔵王で始めたんですけど、当時はどうしたらプロになれるのかすらわかってませんでした。そんなときに蔵王で(カナダ)ウィスラーに行ったことがある人に出会って、(小松)吾郎ちゃんや(高橋)信吾くんの話をしてくれたんです。しかも、その人がキッカケで彼らと滑れるようになったんですよ。それはものすごい体験でしたね」
 
 小松吾郎と高橋信吾。90年代初頭、日本のフリースタイルスノーボーディング黎明期を支えた重要人物である。そもそも、プロになることが目標ではなくただの通過点と端から考えていただけに、その意識の高さに素晴らしい巡り合わせが重なったことで、瞬く間に上達していく。18歳でプロ資格を獲得。ここが忠にとってスタート地点になるはずだった。
 
 しかし、彼は悩んだ。このままプロスノーボーダーという華やかな世界で生きていくのか。それとも社会人として地道に働くのか。さらに追い打ちをかけるように、センスあふれる滑りにフィジカルが追いついていなかったのだろうか。腰痛に苦しめられた。
 
 「ここがオレのスノーボード人生で一番大きな壁でした。19か20歳くらいの頃、本当に腰が痛すぎて自暴自棄になってた時期があって。今思えばただ怠けてただけだと思うんですけど、若かったからトレーニングとかケアをすることもなかった。スノーボードをやめることまで考えてたんですけど、そんなときに後輩のお父さんから相談を受けたんです。“うちの息子もスノーボードをやるんだけど、今病気で入院してるんだ。忠くんが来てくれたら励みになると思うんだけど、何かしてあげられないかな?”って。そいつはヒデキっていうんですけど、後輩とはいってもそれまでちゃんと話したことはありませんでした。でも、お見舞いに行くことにしたんです。そしたらヒデキ、白血病で……。抗がん剤の影響で髪の毛はないし、本当に辛そうでした。これ、なんとかなんないのか?って本気で考えたけど、オレはお見舞いに行くことしかできなかった。でも、最初に会ったときは余命1ヶ月って聞いてたのに、そこから1ヶ月延びて、さらに延びていって。あいつ、あのときめちゃくちゃ頑張ってた。そうやって何度も足を運んでるうちに、どんどんヒデキの強さを感じるようになっていったんです。そのときに、“なんでコイツはこんなに頑張ってるのに、オレは腰が痛いとか弱気なことを言ってんだ!”って心の底から痛感させられて。逆に励まされちゃったんですよ。くすぶっていたオレの気持ちに火をつけてくれました。プロスノーボーダーとして生きていくか、それともやめるかでめちゃくちゃ悩んでる時期だったから、頑張ってるヒデキの姿を見て、“オレはこんなんじゃダメだ!”って思い知らされたんです。もっと真剣に、もっと頑張らないといけない。言い訳なんてしてちゃダメだって。だから、タバコをすぐにやめて筋トレしまくって、本気でプロの道を歩んでいく決意をしました」
 
 ここで入れたスイッチは、プロ生活20周年を終えて新たなるスタートを切った現在に至るまで、一度たりともオフにしたことがない。プロとして本格的に歩み始める前に、こうした苦悩と本気で向き合ったからこそである。後述するが、だからこそ決死の覚悟で挑み、日本人スノーボーダーとして前人未到の快挙を幾度となく成し遂げてきたのだろう。
 
 大人の階段を登り始めるとともに、プロとしてヒデキに与えることができた夢や希望に気づかされた忠。プロスノーボーダーとしてどのような道を歩んでいくのか。当時、JSBA(日本スノーボード協会)のプロサーキット(ハーフパイプ種目)を転戦することが日本では主流とされていたのだが、彼自身はアメリカ西海岸のスケーターたちが雪上に飛び出したことで派生した、スケートボードのアクションやファッションがスノーボードに投影されたニュースクールの影響を強く受けてスノーボードを始めていた。
 
 「(スノーボードを始めた)キッカケは地元の友達と一緒にスケートボードをやってて、そこに前スケートボードをやってたっていう人が現れて。こんな田舎でスケートボードやってるヤツいるんだみたいな感じで(いたらこっちに)来て、“オレ、スノーボードをやってるんだ”みたいなことを言ってて。なんだ、スノーボード?みたいな感じで。そこで、“スノーボードのビデオあるから家に来るか?”って言ってきて。ホント近かったんですよね、スケートボードやってたところと。すぐに行ってビデオ観させてもらって。最初はスケートボードのプロになりたかったんだけど、それ観た瞬間に“オレ、これのプロになる!”って。スノーボードのプロになるって。そっからですかね」
 
 これは2016年11月に公開された、忠のプロ生活20周年を記念して制作されたムービーの冒頭で語られている彼の言葉である。忠の目に飛び込んできた世界は、スケートボード以上に自由なものに映ったのだろう。
 
 「当時観ていたビデオが『ROADKILL』(FALL LINE FILMS/1993年)とかだったから、コンテストのシーンはほとんどないじゃないですか。プロを目指す過程においてハーフパイプの大会に出る必要があることを知ったけど、それまでは自然地形を利用してジャンプするのが好きでした。プロになってからはJSBAのプロサーキットにも少しは出てたんですけど、なんか性に合わなくて……。それで、アメリカに行くようになったんですよね。アキくん(平岡暁史)がユタに留学してたからブライトンとかあっちの山を知ってたんで、そこで撮影しようってことになって。アキくんがムービーを作ってたんですよ」
 
 1998年にリリースされた、平岡暁史プロデュースによるNUT’S FILM『PASSOR』。往年のスノーボーダーであれば、これから記すライダーたちの名を耳にしたことがあるはずだ。平岡を筆頭に、西田崇、鎌田潤、福山正和、太田宜孝、岡義明らが名を連ね、そのトリを飾ったのが忠である。3分あまりに渡る彼のビデオパートは、当時の日本人トップクラスのライダーたちよりも頭ひとつ……いや、ふたつ以上抜きん出ているように感じられる内容だった。
 
 雪面が荒れているにも関わらず、うねるようなアプローチラインを超高速で駆け抜け、ナチュラルのクォーターパイプで特大のマックツイストやメソッドをスタイリッシュに繰り出す。ストレートジャンプでキャブ720を、クォーターパイプでスイッチ・バックサイド720を操るなど、当時としては高難度なスピントリックを高さを叩き出したうえで決めていた。とにかく、ストレートエアだろうがトランジションだろうが垣根なく上手さが際立つ滑り。さらには、ハーフパイプやストリートレールのシーンも収録されており、オールラウンドで次元の異なる滑りを披露していたのだ。
 
 「この『PASSOR』あたりから、ビデオに滑りの記録を残したい。そして、写真にも残したい。こうした想いが強くなっていきましたね」
 
 プロとして生きていくことが確固たるものとなり、その道筋がおぼろげながら見えてきたこのタイミングで、彼の歩みをさらに加速させる出会いが待ち受けていた。
 
 「WHSKEY(BOOZY THE CLOWN作)のムービーを観てたら、デバン(ウォルシュ)がデカい山を滑ってる映像が出てきたんです。“コイツらこんなところでやってるんだ”って衝撃を受けました。日本で滑ってたら彼らとの差は開いていく一方だと感じて、向こうでやろうと決意したんです。そんなときに、マルさん(フォトグラファーの丸山大介氏。後に米TRANSWORLD SNOWBOARDING誌のシニアフォトグラファー)と出会ったんですよ。マルさんがそのときに“カナダでやろうよ”ってオレを誘ってくれました。タイミングがめっちゃよかったですね。当時、マルさんもオレも同じように熱い気持ちを抱いていて」
 
 海外のムービースターたちは、忠にとって憧れの存在ではなく、このときすでにライバルだった。
 
 「マルさんとは考えてることが似てたんですかね。日本にいたとき、自分がやってることにモヤモヤしてる感じが似てるような気がしてました。その頃はスノーボードがすごい流行ってて、あの年代のプロたちはみんな日本でダラダラやってるような感じでした。それがとにかく嫌いで。あと、日本のシーンは大会に対する意識が強かった。でも、オレは大会に出たくてプロになったわけじゃなかったし、映像や写真を残すっていう道が見えてきてたから、マルさんとカナダで勝負することに決めたんです」
 
 先述した20周年記念ムービー内で語られている丸山氏の言葉を借りれば、“ウィスラーは冬のハリウッド”。こうして忠は、手探りながらもムービースターへの道を歩み始めた。
 
つづく
 
 
ISSUE 4 STYLE IS EVERYTHING ──スタイルこそすべて── A4サイズ / フルカラー / 日本語・英語 / 152ページ

 

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