BACKSIDE (バックサイド)

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INTERVIEW

17歳の柿本優空が五輪を目指す同世代とは異なる茨の道「表現」の世界に身を投じた理由

2023.07.31

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オリンピックスポーツとして確立したことで、幼い頃から競技スノーボードを始める若年層が一定数存在する。そのいっぽうで、自由にラインを繋ぐフリースタイルなライディングを写真や映像に残す表現者たちは常にシーンの中心に存在し、彼らの残した作品や生き様に影響を受け、自身の道を模索し始める若手がいるのも事実。本記事で取り上げる、17歳の柿本優空もそのひとりだ。周りの同世代を見渡せばコンペティションに打ち込むスノーボーダーが大半であり、自身の進むべき道に迷いはあったというが、数々のトップライダーたちとの交流を経て決意した「表現の世界」への土俵入り。自分がやりたいスノーボードを続けていくために、スノーボーダーとして生き残るために、競技とは異なる“茨の道”を歩んでいく覚悟を決めた、若きフリースタイラーの胸中に迫る。

「スノーボーダーとして生き残っていくために、険しい道でも今経験を積んでいきたいと思います」

──昨年のオフシーズンに引き続き、今夏も海外のサマーキャンプに精力的に参加するなど、フットワークの軽さを見せている点については後ほどうかがっていきたいのですが、まず、優空とスノーボードとの出会いについて教えてください。

もともと両親がスノーボードをしていたので、3歳くらいのときに雪山に連れていってもらったときだと思います。そこから小学3年くらいまでは家族と普通に滑っていました。家の近くに大阪KINGS(雪を必要としないジャンプ練習施設)があることを知ってからは、そっちにも連れていってもらっていましたね。最初はジャンプが楽しくて仕方なくて、小学4年のときに目標発表会みたいなものがあったときには「6年生までにダブルコークをメイクする!」という目標を発表しちゃったんです(笑)。それに向かってがむしゃらに練習していました。その頃(角野)友基くんが毎週末大阪KINGSで無料レッスンをしていたので、「6年生までにダブル立ちたいから教えてください!」とお願いして毎週、教えてもらっていました。小学5年のときくらいからは大会で勝ちたいとも思い始めたんですが、何よりジャンプが楽しくて、とにかくずっと滑っていました。

──純粋に楽しいから滑っていた、という部分が根底にあるのは、今の優空の活動を見ていても感じます。最近はどのようなモチベーションでスノーボードと向き合っているのでしょうか。

ここ2、3年は自分にとって、スノーボードへの向き合い方を客観的に見つめ直す時期だったんですが、そこで気づいたことがあって。それが、大会で滑っているときよりもイベントや撮影で滑っているときのほうが、自分は心からスノーボードを楽しめている、ということです。イベントや撮影の現場では、よくドロップする前にメイクしている自分の滑りのイメージを浮かべるんです。このポイントで、この技で、このタイミングでキメている自分の滑りは、客観的に見てカッコいい。そう思えるときが、心からスノーボードを楽しめている瞬間なんだと気づきました。だから、納得のいくまでスタイルにこだわったスノーボーダーになりたい。今では撮影も意識しながらスノーボードに取り組んでいます。

──若くしてその境地に至った背景には何があったのですか?

大阪KINGSでもお世話になっている(岡本)圭司くんからすごく影響を受けていて、圭司くんがケガをしたあと、苦しいはずなのにすごく余裕ができたように僕の目には見えていたんですよね。どうやったらスノーボーダーとしてこの先生き残っていけるか、そういう話をするようになりました。少なくともがむしゃらにジャンプして、スピンの完成度を上げて、っていうことだけじゃ、スノーボーダーとしては生き残っていけない。これがいわゆる「スタイル」っていう言葉になると思うんです。生き残っていくためには、できるだけ人が考えないようなことをやったり、自分の強みを理解するっていうことが大切になってくる。僕の強みを活かすためにも、23-24シーズンで大会への出場は最後にしようと思っています。撮影することを目標にしていくとはいえ、ここまでやり続けてきた大会といういちジャンルをやりきらないまま辞めてしまうと、今後気持ちの部分で足枷になってしまうと思うので、1シーズン本気でやりきって、次のステージへ進んでいきたいです。

──同世代がコンペティションで活躍している中、17歳にして表現の世界で生きていく道を選んだその決断の裏には、どのような葛藤があったのでしょうか?

コンペティションに本気で打ち込む同世代たちの成長はやっぱりすごくて、僕の選んだ道は客観的に見ると「逃げ」と言われると思っていますし、自分自身もそう思うところがあったので、しばらく悩んでいました。でも、コンペティションに焦点を当てて練習をしていたときよりも、表現の世界に身を置くと決めてからのほうが、僕はスノーボードに対するモチベーションが高まったんです。険しい道になるとは思うんですが、周りに逃げだと言われたとしても、今は自分がやりたいスノーボードのために時間を使って、あとで振り返ったときに「あのときこの決断をしてよかった」と思えるように、今は経験を積んでいきたいと思っています。

「先輩方に誘ってもらえたときにはいつでも応えられるよう、準備を怠らないようにしています」

──最近はNOMADIKのウエアを身にまとってスタイリッシュなライディングを披露しています。同ブランドにジョインするキッカケとなった出来事を教えてください。

スノーヴァ羽島(岐阜の室内ゲレンデ。2021年閉館)が閉館する直前に行われた「LAST JAM」というイベントです。僕はもともとジブが苦手だったので、LAST JAMの開催前には毎週末練習しに行っていたんですが、おかげで当日、身体がよく動いてすごく楽しめたんです。調子も上がってきていたイベント後半、ウォールから雪の上にトランスファーするような形のセクションが開いて、そこが目玉セクションになってみんなが狙い始めたんですよね。けっこうミスしている人が続いているなと思っていたら、逆にテンションが上がっちゃって。この流れの中で一発で決めてやるという気持ちで挑んだら、いい形のFS360をメイクできたんです。それを(國母)カズくんが見ていてくれて、閉会式のときに声をかけてもらったのがキッカケでした。楽しくてテンションが上がりすぎたのか、実はこのメイクのこと以外、イベント最中のことはあまり覚えていないんです(笑)。周りの目を気にせず心から楽しんだからこそ、何か結果を残すことができたのかな、と思っています。

──その後のシーズンではスノーボードとの向き合い方がどう変わったか、教えてください。

21-22シーズンから冬は(長野県)白馬エリアにコモっていて、それまでは友達と滑ることが日常だったんですが、先輩についていって滑るスノーボードが増えました。最初はHACHIクルーの(小林)優太くんたちが山に入るとき、声をかけてもらって連れていってもらう形でした。白馬の先輩の後ろをついて滑ると、もう本当に何もできないんです。それがすごく悔しくて、自分ひとりで滑るときにもそのラインにどうやってリベンジするかを考えて滑るようになりました。先輩たちが山に入るときに「連れていってください!」っていうのは自分の立場じゃとてもお願いできないと思っていたので、誘ってもらえたときにいつでも行けるよう、準備だけは怠らないようにしていました。はじめて声をかけていただいたときはめっちゃテンションが上がりましたね!

──はじめて先輩たちとバックカントリーライディングを経験したときのことを教えてください。

最初はとにかく面白かったです。八方尾根のあるポイントに連れていってもらったんですが、キレイに地形をワンターン当てることができて、しかも写真も残すことができました。コンディションにも恵まれ、すごく印象深い経験でした。白馬の山ではラインで繋ぐスノーボードができるので、先輩たちについていかせてもらいながら、今はいろいろな経験をさせてもらっています。

 

 

「自分の滑りを魅せつけて、海外のライダーにYua Kakimotoの存在を覚えてもらえるようにしたいです」

──2年連続でサマーキャンプの聖地、米オレゴン州マウントフッドを訪れています。日本のオフトレ施設は充実しており国内でも十分練習ができる中、サマーキャンプに参加することは優空にとってどのような価値があるのでしょうか。

マウントフッドでのサマーキャンプは、ブランドや世界中のライダーたちと繋がることができる最高のチャンスだと思っています。ライダーたちと徐々に仲良くなって、将来自分が海外に行くとき、もしくは海外のライダーたちが日本に来るときに、一緒に撮影できる仲間を作るために行っている感じです。やっぱり現場で会わないと、その人が実際どういう人かはわからないじゃないですか。SNSも大事ですが、あの場所で滑りを魅せつけて、見ている人に自分の存在感を植えつけることはとても大切だと思っています。去年の夏に行ったときはサミー(カールソン)というスキーヤーと仲良くなることができて、彼がOAKLEY(オークリー)を紹介してくれたりと、あの場所で存在感を示すことができました。だからこそ今年も行って、Yua Kakimotoの存在を忘れさせないようにしたかったんです。

──サマーキャンプに参加するにあたって、言語の壁など乗り越えなければならない障壁は多数存在したかと思います。2回目の参加で、1回目よりも進化したと感じた部分はありますか?

去年より海外のライダーと話すことに抵抗がなくなりました。今年はDAKINEのチームにジョインさせてもらったんですが、積極的にコミュニケーションをとるように心がけていましたね。こうした環境にいるだけで繋がりに恵まれて、コミュニケーションをとれる相手は増えていくので、物怖じせずに話しかけるようにしていました。あと今回は、自分のスノーボードをどれだけ魅せつけられるか、ということも意識して動くことができたんです。マウントフッドはレーンが分かれているんですが、例えばビッグキッカーにカメラマンなど誰もいなかったら、僕もそっちには行かない。誰かがいる場所で、誰かが見ているときにメイクする。誰も見ていなかったらすぐ休憩して身体を整える。そうしていると得意なジャンプをいろいろなライダーたちに見てもらえるし、画も残すことができました。

──憧れのライダーたちとのセッションを繰り広げたことによって、どのような刺激を受けましたか?

サム(タックスウッド)とかブレイク(ポール)とかは、そこでそれやるかっていうヤバいトリックをサラッとやっちゃうんですよね。魅せ方のバリエーションも多くて、アイテムに対してどういう技がハマるかっていうのがわかっている感じです。その部分はまだ自分には足りないので、いろいろな動きを試してどんなシチュエーションでも自分のスタイルを出せるようにしていく必要があるな、と思いました。マウントフッドの前には(米カリフォリニア州)マンモスマウンテンで開催されていた
「WORLD QUARTERPIPE CHAMPIONSHIPS 2023」にも参加していたんですが、あんなに悔しい思いをしたことはない、というくらいの大失敗で……。クォーターパイプにビビってしまって、自分の滑りをすることができなかったんです。だからこそマウントフッドでは、デカいキッカーではやったことがないような、怖いと思うトリックにあえてチャレンジするようにしていました。こういう恐怖心くらい乗り越えないと、表現でやっていくなんて言えない、という気持ちでしたね。

 

 

──今の目標を教えてください。

自分から動かず待っているだけ、いつか見つけてもらえる、みたいなスタンスだとそのまま終わってしまうと思っていて。例えば白馬の先輩たちと滑るときも、リスペクトは忘れずに、今年は積極的に「行っていいですか」って聞くようにしていたんです。サマーキャンプもDAKINEのチームにジョインさせてもらうために、東京の事務所まで行ってお願いしました。何をするにも今は知名度や経験値が足りないので、今後の自分のために自主的に動いて、今できることを精一杯頑張っていきたいです。

 
 

おわりに

スノーボーダーとして生き続けるため、若くして優空が選んだのは表現の世界。数々のトップライダーたちの滑りを目の前で見てきたからこそ、その世界で生き抜くことの過酷さも知っているのだろう。現状に満足せず、常にアップデートを続ける彼の姿勢が頼もしく思えるインタビューだった。世界中から流行が集まるマウントフッドの地で刺激を受け、視野が広がった優空の今後の活躍からも目が離せない。

 
 
柿本優空(かきもと・ゆうあ)
▷出身地: 奈良県五條市
▷生年月日: 2005年9月5日
▷スポンサー: RIDE、DAKINE、NOMADIK、OAKLEY、ムラサキスポーツ、こまだ整骨院

text: Yuto Nishimura(HANGOUT COMPANY)
photo: Takuya “Nissy” Nishinaka

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