INTERVIEW
手繰り寄せたホンモノたちとの交流を通じて進化し続ける伊藤藍冬の生き様を知る
2023.07.03
「どうにかして海外とのコネクションを作りたくて。英語はまったく喋れなかったけど、海外のヤツらと仲良くなって、一緒に撮影がしたかったんです」
2022年の夏、米オレゴン州マウントフッドに単身で乗り込み、ライディングスキルとGoogle翻訳を駆使して世界のトップライダーたちとセッションを交わしたという、当時弱冠20歳の伊藤藍冬。80年代後半から四半世紀近く続いているマウントフッドのサマーキャンプには毎年、世界中から感度の高いスノーボーダーたちが訪れる。そのため、世界各地で醸成されるライディングスタイルやトリック、ファッションといった、スノーボードにまつわるカルチャーが交わり、新たな流行が生まれる場でもあるのだ。
そんな最先端の地で藍冬が手繰り寄せたのは、ストリートの聖地であるユタ州ソルトレイクシティをベースに活動するTHE DUST BOXクルーとの刺激的な毎日だった。幼い頃からハーフパイプのコンペティションシーンに挑み、生まれ育った北海道という地の利を活かして培ってきたオールラウンドなライディングスキルと持ち前の行動力に加えて、スノーボードを始めてからずっと抱き続けてきた映像表現の世界への憧れが、彼をアメリカの地で輝かせたのだった。
アメリカから日本への逆輸入を狙う藍冬が、彼にとってのターニングポイントとなった22-23シーズンの活動を振り返る。
「同じことだけずっとするのが苦手で……スノーボードを取り巻くカルチャーすべてが好きだったんです」
──2022年夏のマウントフッドにて「TORMENT SNOWBOARD MAGAZINE」のInstagramに取り上げられ映像を残すなど、その存在感を世界中に示しました。まずは、藍冬とスノーボードとの出会いについて教えてください。
もともとお父さんがスノーボーダーで、小さい頃、家の前に除雪でできた雪のかたまりみたいなものを利用して、スノースケートに乗せてもらったのが一番最初の出会いだったと思います。5歳か6歳くらいのときには車で30分くらいの距離にあった(北海道)えんがるロックバレーっていうゲレンデで平日の夜はほとんど毎日、お父さんの仕事が終わってから滑っていました。当時、そこには手掘りのハーフパイプがあったんですけど、そこが楽しくて。お父さんがSAJ(全日本スキー連盟)の大会のジャッジを手伝っていたこともあって、自然と大会にも出るようになりました。オレはビビりで当時はエアとかもそんなにできなかったから、大会はしばらくダメだったんですけどね(笑)。けど北海道で育ったから、すぐ近くにいい雪はたくさんあって。パイプ以外にも、お父さんと旭岳でパウダーを楽しみながらフリーライディングしたり、一緒にスノーボードのムービーを観たりするのが楽しくて、そういうのを含めたスノーボードのカルチャーみたいなもの全部が、昔から好きでした。
──コンペティションに出場しているときは、どのようなモチベーションでスノーボードに向き合っていたのでしょうか。
中学1年のときに札幌市に引越したんですが、ちょうどその年にさっぽろばんけいにハーフパイプができたんです。大会では相変わらず勝てなかったけど、ばんけいでのハーフパイプセッションがとにかく楽しくて、ずっと滑っていました。高校に入ったあたりからはSALOMON(サロモン)の中井孝治くんや高橋福樹くんがコーチとして教えてくれる機会がすごく多くなって、そういう憧れのライダーたちのフリーライディングや、パイプに入ったときに繰り出す特大のマックツイストなんかを見ると、「オレもこうなりたい」っていう気持ちが芽生えて、そのために頑張っていた感じですね。
──先ほどムービーを観るのが好きだ、とも仰っていましたが、当時の藍冬にとって、映像表現はどのような世界だったのでしょうか。
撮影の世界は憧れでしたね。いずれ自分もこうなりたいって幼いながらに思っていました。その頃はちょうど(國母)カズくんがオリンピックに出場しながら、BURTON(バートン)からフルパートを出したりしていたときなので、自分の当時の夢も、大会で頑張って結果を残しながらムービーシーンで活躍することでした。とはいえ、大会で勝つためだけに人と同じルーティンをずっと練習する、みたいなことはやっぱりどうしても苦手で……。スノーボードってほかにもたくさんできることがあるのに、一日中デカいパイプで滑り続けた日とかは、けっこう辛かった記憶があります。
──これまでのスノーボード人生で、影響を与えられたり、リスペクトしているライダーはいますか?
オレにとっては(平野)海祝の存在が大きいですね。高校1年か2年のときに(山梨)カムイみさかで初めて喋ったんですけど、面白いくらいに話が合う。海祝は自分でどんどん新しいことを考えていて、今ある環境の中でどうやって楽しむか、みたいな考え方をするから、そういうところで意気投合した感じです。例えば(青森)青森スプリングにパイプの練習に行くってなったときも、パイプのクローズ後には海祝と自由にパークで滑ったりして、その時間がすごく楽しかったんですよね。海祝がいたから大会にも出つつ、スノーボードをより楽しめたのかなって思っています。
「ずっと憧れていた“スノーボーダー”になりたいと思って、マウントフッドに行くことを決意しました」
──2022年の夏には単身でサマーキャンプの聖地に乗り込み、見事世界とのコネクションを作ることに成功した藍冬。マウントフッドに行こうと決意したキッカケを教えてください。
21-22シーズンで、パイプの大会はある意味諦めたところがあって。追いつけないところまでレベルが上がっているし、ずっとこれを続けていても遠征費だったりで自分も苦しいし、親にも助けてもらわなきゃいけなかったりとか……。そこまでして大会に出続ける意味が今の自分にあるのかって考えたときに、これは自分の進むべき道じゃないなと思ったんです。そこで、自分が小さい頃から観ていた映像に出ているようなスノーボーダーになりたい!と、改めて決意しました。なんの当てもない状態だったので、とにかく海外とのコネクションを作らないと、下手したら次のシーズンは何もやることがなくなってしまうかもしれない。とにかく行動を起こそうと思って、フッドに行くことを決めたんです。
──フッドでのサマーキャンプ中は、どのように過ごしていましたか?
最初の1週間は(片山)來夢くんに頼って生活しながら滑っていました。もともと來夢くんとは大会で会ったときとかに「フッド行きたいね」っていう話をしていたこともあって、めっちゃ助けてもらいました。そんな中、初日からドラマがあって。DUST BOXのダン(マクゴナガル)ってヤツが「お前、アイトだろう!」って声をかけてくれたんです。來夢くんに紹介して、一緒に滑っていましたね。英語はまったくできなかったんですけど、Google翻訳を使いながらいろんなライダーと一緒にセッションしました。後半はK2のライダーが集まっている宿に入ることができたんですけど、前半に仲良くなったヤツもいたので、あんまりアウェイな感じはなく過ごすことができました。特にDUST BOXのクルーは年が近いのもあって、ノア(ピーターソン)とかとは日中一緒に滑って、夜はみんなでバーに行って。話も合うし、すごく楽しかったですね。
──サマーキャンプ中、印象に残った出来事などはありますか?
そのときフッドで一番デカいキッカーが18mくらいだったんですけど、ジャレッド(エルストン)とかと飛んだら、みんなヤラれて(笑)。もうあれはイヤだってことで、その脇にあったバグジャンプの跡地を利用してみんなで遊び始めたんです。そこがちょうどパイプっぽい地形になってたこともあって、ヤバいの残すならここだって思ったし、フィルマーも集まっていたから絶対誰もできなさそうなことにトライしたいと思って、アーリーウープのマックツイストをやったんです。結果的に2回のトライでメイクできて、それがTORMENTにも取り上げてもらえて。みんなの記憶に残せた一番のカットだったかな、と思います。
「自分を表現するためにオリジナルでありたい。この価値観を大切に、逆輸入スノーボーダーを目指したいです」
──サマーキャンプで存在感を示してから迎えた22-23シーズンだったわけですが、これまでと変わったことはありましたか?
フッドで仲良くなった海外のライダーが来日するとき、まずオレに連絡が来るようになったことだと思います。そのおかげで、22-23シーズンはずっと刺激的でした。1月くらいに行った(渡辺)大介くんとか(佐藤)亜耶ちゃんとの撮影トリップのあと、アメリカのK2のチームマネージャーから突然連絡がきて、「ストリートチームが日本に行くから、アイト合流してやってくれ!」って言われたんです。その中のジェイク・クジックとジャスティン・フィップスっていうライダーはフッドでも仲良くしていたから再会!みたいな流れになって。ちなみに、オレはそのときが人生で初めてのストリートでの撮影だったんです(笑)。ここ滑るの?みたいな驚きの連続だったんですが、撮影は刺激的で、オレも2クリップ残すことができました。しかも、このトリップの途中で「アイトのタイミングに合わせるから、今シーズンアメリカに来てみんなで撮影しよう」とお誘いまでもらうことができて、嬉しかったですね。その撮影が終わって帰ってきたら、今度はDUST BOXのダンから「オレたちも日本に行くから一緒にやろうぜ!」って連絡がきたんです。でも、K2の撮影でオレがアメリカに行く予定があることを伝えると「アイトがアメリカに行く日まで、日本にいるよ!」と言ってくれて。そこから1ヶ月くらいは札幌で、ほとんど家に帰らずDUST BOXクルーたちと一緒に行動していました。
──フッドで手繰り寄せたチャンスを見事モノにしたシーズンだったことが伝わってきます。DUST BOXクルーと行動をともにしたことによって、どのような刺激を受けましたか?
DUST BOXのヤツらは全員年が近いのにヤバい映像を残している、オレたちの世代からしたら神みたいな存在なんです。撮影に参加して感じたのは、セクションを攻めているライダーは真剣で集中しているんですが、ほかのクルーはふざけたり、ビール飲んだりしていて、めっちゃ緩かったってことで(笑)。撮影中も身内の中でのバチバチした感じもなくて、いいセクションを見つけたらみんなでアプローチを作って、やりたいヤツが攻める。本当に、仲良いヤツらの集まりだったんです。写真を撮るヤツもいるし、映像が上手いヤツもいるから、映像作品も自分たちで作っているし、さらに、絵を描いたり、自分で別の仕事をリモートでやりながらスノーボードをやってるヤツもいたりして。そういういろんな姿勢でスノーボードに取り組んでいるヤツらの集まりだから、その輪の中にいると毎日新しい考え方に触れることができて、スノーボーダーとしての生き様を目の前で学ぶことができました。
──アメリカで行われたK2チームの撮影では、どのような経験を積むことができたのでしょうか。
K2の撮影には1週間しか合流できず、残念ながら天候にも恵まれなくて……撮影自体はチャンスがあまり訪れなかったんです。そんな状況だったのにも関わらず、ありがたいことに約1ヶ月間アメリカに滞在できる日程で航空券を取っていただけたおかげで、DUST BOXクルーとも彼らのホームで合流することができました。みんなの家に泊まらせてもらいながら一緒にセッションしたり、DUST BOXと合同で開催した「BE SOMEBODY」にも参加できたんです。実は札幌でのセッションのとき、1週間くらい海祝も合流していて。ばんけいのナイターでDUST BOXクルーとパイプセッションをやったところ、それが思いのほか楽しくて、ユタでこのイベントをやろう!っていうところまで話が膨らんだんです。イベントはすごい盛り上がって、これもいい経験になりました。
──ユタを拠点とする憧れのライダーたちに認められたわけですが、来年以降の活動について、何か考えていることはありますか?
新しい友達が現地にたくさんできたことと、ユタの魅力に気づけたことが、22-23シーズンの収穫だと思っています。車で30分の距離にスケールの大きい山が何個もある場所に、感度の高いスノーボーダーたちが集まっていて。そういう憧れのライダーたちから「いつでも来いよ!」と言ってもらえるくらい仲良くなることができたんです。今年のDUST BOXの撮影ではけっこういいクリップを残すことができたので、来シーズンこそはバックカントリーの撮影も含めて、もっといろんなことに挑戦していきたいと考えています。海外で活躍したいという目標が、空想ではなくて現実味を帯びてきました!
──今後の目標を教えてください。
アメリカで名前が売れて、それを日本に持って帰る、いわゆる逆輸入みたいな感じになりたいと思っています。一人ひとりが自分の意思をしっかり持っていて、自らを表現するためにライフスタイルまで含めて全部オリジナルでありたいという意思を、DUST BOXのライダーたちからは強く感じました。滑りはもちろんですけど、そういう部分を自分も吸収して、日本に持ち帰れるようなライダーになりたいです。あとは「d0bunezumi(ドブネズミ)」から映像作品を出すこともやりたいと思っています。d0bunezumiはキレイなライディング映像じゃないけど、スノーボーダーの生き様としてカッコいい部分、例えば思いっきり滑ってヤラれたシーンとかも発信できる場として、何人かで作ったんです。だから作る映像も、バックカントリーで残すキレイなラインもストリートの荒々しい滑りも全部含めて、なんだったら映画監督に興味があるヤツとか、そういう違うジャンルで夢を追っているヤツらも巻き込んで、スノーボーダーという生き様を見せるドキュメンタリーにしたい。こういう、スノーボードにまつわることを全部できるようなライダーに成長していきたいと思っています。
おわりに
単身乗り込んだサマーキャンプの聖地で、シーンの最前線を走るライダーたちとの交流を重ねた藍冬。彼らに自身のライディングスタイルを魅せつけ、その上で彼らから「スノーボーダー」としての生き様を学び取った藍冬は、言語の壁を軽々と越え、ストリートに生きるライダーたちの人気者となったわけだ。確かな実力とスポンジのような吸収力を武器に異国の地で戦う藍冬の活躍から、今後も目が離せない。
伊藤藍冬(いとう・あいと)
▷出身地: 北海道札幌市
▷生年月日: 2001年12月11日
▷スポンサー: K2、HOWL、MOJANE
text: Yuto Nishimura(HANGOUT COMPANY)