BACKSIDE (バックサイド)

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INTERVIEW

FREESTYLE FOR LIFESTYLE Vol.4 庵原保文(ヤプリ) ✕ 野上大介
「元スノーボード誌編集長がベンチャー経営者に」

2019.09.23

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能動的かつ自由にラインを描き、独自性あふれるトリックを繰り出すライディングスタイルを通じて、スノーボーダーであり、いち個人としてのライフスタイルが育まれていくのではないか。こうしたフリースタイルスノーボーディングの根幹をひも解くべく、スノーボーダーにして各界で活躍する有識者を招いた対談企画を用意した。第4回目のゲストは、かつてTRANSWORLD SNOWBOARDING JAPAN(以下TWSJ)誌の敏腕編集長として数々のトレンドを生み出してきた経歴を持つ庵原保文氏。同ポストに就いていた弊サイト編集長・野上大介の前任に当たるわけだ。現在は、多数の有名アパレルブランド、銀行、飲食店……と枚挙にいとまがない導入実績(その数400例以上)を誇る、プログラミング不要でアプリの開発・運用・分析が可能なプラットフォームサービスを提供するヤプリの代表取締役を務める。2019年夏には30億円の資金調達と、週刊東洋経済の「すごいベンチャー100」に特集されるなど、注目を集める人物。そんな同氏のフリースタイルマインドに迫った。

 
 

スノーボードをやっていたからこそ

 
BACKSIDE編集長・野上大介(以下DN): 庵原さんとは同じTWSJ編集部に属してましたが、今の事業に出版社でのキャリアは活きてますか?
 
庵原保文(以下YI): めちゃくちゃ活きています。これは、まだ創業前の話ですが、僕たちの最初のお客さんはBURTONでした。マーケティングの石原さんにお願いして六本木で開催されていたBURTON RAIL DAYSのアプリを作ったんです。そのとき僕は金融関連会社に勤めていて、アプリ開発はいち会社員のサイドプロジェクトでやってるような段階。でも、面白そうだからと採用してくれたおかげで、自分たちの実力を証明できたし、最初の成功事例にもなりました。今もYappliの社内用の管理画面はRAIL DAYSが一番最初に出てくるんですよ。
 
DN: そうなんですね。
 
YI: あと、起業したばかり頃、お客さんをいろいろ紹介してくれたのも出版社時代の同僚だったり、付き合いがあった人でした。
 
DN: 横乗り好きの人たち特有の、人とのつながりや仲間意識を大切にする文化的価値が大きかったんですね。
 
YI: そうかもしれない。最近、若い社員の子にアドバイスするとき、こんな話をよくするんです。当時も出版業界は不景気と言われてたけど、そんな負の環境でも前向きに仕事をすることは大事だよって。もし当時の僕が腐ってロクな仕事をしなかったら信用度は下がって、10年後に誰からも人に紹介したいと思われる人物にはなってなかったから、と。
 
DN: 人とのつながり以外にも、編集者としてのスキルは今の事業に活きていますか?
 
YI: 人に何かを伝えることを突き詰めると、結局は写真素材とテキストだと思うんです。実は、これがテック系の人たちの苦手とするところで……。今まであまり真面目に文章や写真と向き合ってこなかったり、何かをイチから企画するのもあまり経験してこなかった人が多い。編集者って基本的には白紙のところに自分たちで考えて企画したことを構成して埋めていくわけだから、とても活かされてますね。今も会社のメルマガやプレスリリースは僕が赤字を入れてますよ。あと、編集者として多くのグラフィックデザイナーやクリエイターと仕事をしたのも、今の仕事に活きていますね。
 

Yasufumi Ihara

 
DN: 編集・執筆能力に加えて、Yappliはあらゆるクリエイティブが洗練されているイメージがあります。
 
YI: そこはこだわってますね。きっとスノーボード雑誌に携わっていたときに、「カッコいい」「オシャレ」「スタイル」のような抽象的なものと向き合っていたのが大きいと思います。スノーボードをやってるとクリエイティブになれると思うんです。滑りも遊びもいろいろあるし、幅が広くて奥も深いから。スノーボードをやっていたベースが自分のボトムラインにあって、それが自由な発想などにも活きてるんじゃないですかね。
 
DN: なるほど。
 
YI: あと、今の事業のヒントをもらったのも、実は出版社時代に築き上げた人とのつながりでした。あるとき、「こんなアプリを作れないか?」と同時に2人から言われたんです。ひとりがフクちゃん(福山正和)で、彼自身が手掛けるブランドのアプリを作りたい。もうひとりがTWSJ版元であるトランスワールドジャパンの当時の広告部長で、スノーボードギアカタログのアプリを作りたい、と。しかも、2人とも同じような機能を求めていた。それで似たような機能をテンプレートにして、ほしい機能を選ぶだけで簡単にアプリが作れないか。そんなサービスがあったら画期的なんじゃないかと思ったんです。
 
DN: そうだったんですね。今の事業はスノーボードとリンクしないのかと思っていたら、けっこう大きな存在だったんですね。
 
YI: ほぼほぼスノーボードで完結しますね(笑)。まぁ、僕の人生はフリーライディングのように好きなところを滑ってきたような感じですから。
 
 

一度ハマったらとことん追求する

 
DN: 同じ編集部で働いていたのに、あまり聞いてなかったから教えてください。そもそもスノーボードを始めたキッカケは?
 
YI: 高校生のときに流行ってたから(笑)。でも、面白くて続けていたら、大学時代にどハマりして。免許を取得してからは毎週末のように父親に車を借りて雪山へ行ってました。お金がなかったから寝るのは車でしたけど。
 
DN: どのあたりで滑ってましたか?
 
YI: 群馬だと天神平や武尊牧場、新潟だと石打丸山や苗場などですね。本気でやりたくなったのでコモりたかったんですけど、僕は大学があったからそれができなくて。で、考えた結果、留学することにしたんです。というのも、大学3年の春休みにアメリカ・ユタに2~3週間ほど行ったんですよ。当時はJPウォーカーをはじめFORUM 8に憧れていて、調べたらみんなユタ出身でブライトンという山で上手くなったというバックグラウンドを持っていた。そこに何かあると思いブライトンに行ったら、何もかもが僕の予想をはるかに超えていて。IT企業の聖地はカリフォルニア州のシリコンバレーなんですが、スノーボードの聖地は完全にユタだなと当時思いました。そのトリップから帰国した直後に親に相談したんです。英語を勉強したいから大学卒業前に留学させてくれって(笑)
 
DN: 初の、しかも本場でのコモり生活はどうでしたか?
 
YI: 当初は1年間の予定でしたが、ブライトンが面白すぎて結局は2年間も留学してました(笑)
 
DN: そこで自身もレベルアップした?
 
YI: はい、かなり。バックカントリーでキッカーを作って飛んでばかりいましたね。地形が豊かな山をみっちりと滑り込んだことでフリーライディングも上手くなりました。FORUM 8のメンバーも普通に滑っていたし、日本でもパークは流行っていたけど、レベルが圧倒的に向こうのほうが上で。本当に刺激的でした。
 
DN: フットワークの軽さというか、ハマったら一途というか……。行動力がすごいですよね。
 

Yasufumi Ihara and Daisuke Nogami

 
YI: 野上さんもそうだと思いますが、僕もひとつのことにめちゃくちゃフォーカスするタイプで。起業した今は事業に集中していますが、当時はスノーボード、特にユタのシーンに興味がありました。海外のスノーボード専門誌も読みふけっていたし、どこに誰がいて、どんな動きをしていて、どういったシーンがあるっていうのも熟知してましたね。留学を終えて帰国した直後に知人の紹介でTWSJ編集部の人たちに会ったんです。でも、彼らと話しをしていても、僕のほうが海外のスノーボードシーンに関しては詳しいってことがわかって。気がつけば編集部で働くようになってました。
 
DN: もともと出版社に就職したかった?
 
YI: これは今も変わってないんですけど、自分が企画したものを世に出したり、情報配信をしてトレンドを作りたいなって想いが自分のベースにあるんだと思います。だから、基本的にメディアに興味がありました。
 
DN: 結局、何年くらいいた?
 
YI: 23歳で入って28歳までいたんで丸5年かな? そのうち編集長を2年間やらせてもらいました。先輩たちを飛び越えて僕が編集長になったから、けっこう大変でしたよ(苦笑)。その後、野上さんにバトンタッチしたんですよね。
 
DN: 最近は忙しいだろうと思いますが、滑りには?
 
YI: Yappliの構想を思いついてから創業するまでの2年間は、まったく滑らなかったです。それこそ会社員をしながら動かしていたプロジェクトだったし、週末はサービスの開発にすべてを費やしていたから。でも、ようやく年に何度かは行けるようになりました。会社の規模も大きくなり、人に任せられる部分も増えてきたので。
 
DN: 今、興味のある山は?
 
YI: 白馬や北海道のバックカントリーをもっと滑ってみたいですね。たまに、白馬の八方ではガイドをつけて滑ったりしています。あと、カナダのボールドフェイスには一度行ってみたいです。キャットでバックカントリーを滑れるの、ちょっと優雅でいいですよね(笑)。やっぱりパウダーは楽しいですもんね。ただ、今でもバックカントリーにキッカーを作って飛んだりもしたいんです。そういえば留学してた頃、キッカーを作ってて飛んでたら、アリ・ゴーレットやE-STONE(カメラマン)たちが現れたり、ポイントを探してたらJPウォーカーの撮影に遭遇したり……なんか懐かしいな。
 
DN: やっぱり当時のユタはヤバかったんですね。ちなみに庵原さんはどんなビデオにインスパイアを受けましたか? 僕は『ROADKILL』とか『R.P.M.』なんですけど。
 
YI: もちろんそれらのビデオを観ていましたけど、一番影響を受けたのは少しあとの『SIMPLE PLEASURE』ですかね。テープが擦り切れるくらい観てましたよ。スノーボードが近代化していく頃の映像が好きでしたね。
 
DN: あの頃は毎年のようにニュートリックが生まれ、すさまじい勢いで進化してましたもんね。
 
YI: あの頃のスノーボードって、毎年のように劇的に機能がアップグレードされてたiPhoneの創業期に似ているなって思うんです。先日、新型iPhoneが発表されたけど、もう機能的にはそんなに真新しいことはなかった。ちょっと停滞している印象を受けましたね。
 
DN: 庵原さんって、話を聞いていると何かが大きく動き出そうとする、面白そうなところに常に身を置いている印象がありますね。
 
YI: 流行りどころにね(笑)。ただ僕は、自分の人生をフリースタイルにフリーライドしてるだけですよ。やっぱり自分の好きなことを追求したほうがいい。そう思うんです。
 
 

ふたりの元TWSJ編集長が語る現在のシーン

 
DN: 今のスノーボードのシーンは、どう思いますか?
 
YI: 自分の周りの人たちやスノーボード業界から離れている自分に入ってくる情報から考えると、やや二極化が進んでいるとは感じますね。かつてハマっていた人たちがアラフォーやアラフィフになって、バックカントリーに取り組む人が増えている。一方、オリンピックを目指す競技者志向の強い若い世代も多いのではないか、と。ただ、その間の層がスコーンと抜けているような気がしますね。
 
DN: 以前は雪山にコモったり、毎年のようにギアを買い替えていた層ですね。確かにかなり減ってると思います。
 
YI: ただ、僕も何度か転職しましたが、どの会社でもスノーボードをやってる人はいるんですよね。年に2、3回という人も多いですが、そんな人も含めればスノーボード人口の裾野は広いと思っていて。
 
DN: そこはポジティブですね。
 
YI: 最近はサイドカントリーを楽しめるように滑走エリアを広げたりと、ゲレンデ側も変わっていくタイミングなのかなって。個人的には、ウィスラーやコロラドのような少しラグジュアリーなリゾートが増えてもいいと思ってます。白馬やニセコのような、とんでもない可能性を秘めた山って日本が世界に誇れるものだと思いますし。
 
DN: なるほど。
 
YI: ところで、僕がTWSJ編集部にいた頃はストレートジャンプで1080以上は人間工学的に無理だろうと思ってました。が、今は超人すぎて……ついていけません(苦笑)
 

Daisuke Nogami

 
DN: 技術的な進化はすさまじいですね。その背景にはエアマットを使ったジャンプ練習施設の存在が大きい。競技志向の強いキッズたちは反復練習を繰り返し、一般の若いスノーボーダーとの差は広がるばかり。だから、本来のボリュームゾーンであるパークで遊ぶような層が激減しているのかもしれません。
 
YI: スキージャンプって見てもできそうな気がしないけど、すでにスノーボードも一般的にはそんな目で見られているのかもしれないですね。
 
DN: ただ、プロ野球やサッカーのようにスノーボードも“観る”スポーツとして成熟していくのはいいことだとも思うんです。
 
YI: そうだと思います。ただ、スノーボードって若者のスポーツだって思ってるんですが、人口減少のせいか、スノーボードをする若者が減ってるのは残念に感じます。そのなかでスノーボードのカッコいいカルチャーをどう維持していくのか。それこそが野上さんのライフワークじゃないですか?
 
DN: そうですね。頑張ります(笑)
 
 

GUEST

庵原保文
Yasubumi Ihara

 

Yasufumi Ihara

 
東京都武蔵野市出身。大学在学中にスノーボードにどっぷりとハマり、アメリカ・ユタ州に留学。卒業後はTWSJ編集部で編集業務に明け暮れる。編集長を2年間務めたのち、Yahoo! JAPANに転職。ここで現在のヤプリの共同創業者に出会う。シティバンクに転職後もアプリの開発を進め、2013年にヤプリの前身であるファストメディアを創業し代表取締役に就任。2017年に社名をヤプリに変更し、今に至る。

text: Haruaki Kanazawa photos: Nobuhiro Fukami

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