FEATURE
星野リゾート ネコマ マウンテン誕生秘話【前編】雪バカたちが14年かけて実現させた夢
2023.11.16
今般の連結に向けて2009年から始動、14年という歳月を要した一大プロジェクトである。その間、東日本大震災が引き起こした原発事故による風評被害をこうむり、コロナ禍の影響による大打撃を受けた。それでも諦めなかった、アルツ磐梯と猫魔スキー場を支えてきた“雪バカ”たちが掲げた夢。その指揮者である星野リゾート代表、星野佳路さんに話を聞いた。全2回に分けてお届けする前編は、ネコマ マウンテンが誕生するまでの裏話をお届けする。
スノーボーダーの聖地とパウダー天国を結びつけるという14年前の創造力
──2003年から福島・アルツ磐梯の再生事業を行われています。アルツはこれまで“スノーボーダーの聖地”として「NIPPON OPEN」や「ASIAN OPEN」といった国際大会を開催、さらには国際規格のビッグキッカーを設置してコンペティターたちをサポートするなど、スノーボーダーとともに歩まれてきました。星野さんはこれまでスノーボーダーの存在価値について、どのように捉えられてきましたか?
星野リゾートにとって3件目の再生案件がアルツ磐梯でした。私はスキーヤーですが、2003年にアルツを引き継いだときはスノーボードがとても成長していて、大きなセグメントを作っていました。ところが、全国にはまだスノーボードでの滑走を禁止するスキー場があるなど、スノーボーダーたちが受け入れられていないことを知りました。ニッチな新しいセグメントが成長しているのに、日本中の伝統的なスキー場は既存の顧客の声が大きく入りすぎていて、「危ない」「マナーが悪い」など言って、成長している新セグメントのポテンシャルに対して応えられていませんでした。
私たちは、バブル期に地元の第三セクターが運営していた後発組。伝統的なスキー場は顧客(スキーヤー)を持っていますから、戦略的に差別化していかないといけません。そのため、私たちにとってターゲットにすべきマーケットセグメントがスノーボーダーだった、ということです。スノーボードを始めたわけではありませんでしたが、そこから私はスノーボードの世界を勉強したり、そこに携わっている人たちやBURTON(バートン)さんとコミュニケーションを図るようになりました。最終的にはジェイク・バートンさんと話をして、NIPPON OPENからASIAN OPENへと発展させていくのですが、あの段階でスノーボードのことを学び始めたことがアルツ磐梯として正しい戦略だったと思っています。私たちの戦略をしっかりと説明して、スノーボーダーの聖地を目指しているということに共感していただいたことも大きかったですね。
──2009年にASIAN OPENが終わりを告げるタイミングと重なるようにして、アルツ磐梯と猫魔スキー場の連結プロジェクトが始動します。その背景や経緯について教えてください。
私たちがアルツ磐梯の運営会社として入り、競合関係の調査やマーケティング活動を展開していた際、裏磐梯猫魔スキー場が破綻したことを知りました。アルツ磐梯のちょうど真裏にあたりますので、私は尾根を何度も自分で歩いて滑り、周辺の地形を理解していました。これが将来的に連結できるとなると、かなり大きなインパクトを与えることができる。あのエリアのスキー・スノーボード体験を別次元にまで引き上げることができる。そう確信しました。
世界中を見渡すと、豊富なコースバリエーションや広い面積を誇るスキー場はたくさんありますが、表と裏で隣接していることは特別です。アルツ磐梯側の表磐梯に来ると晴れ間が多く猪苗代湖が見えますが、裏磐梯にあたる猫魔スキー場側の斜面はバックボウルという位置づけで、気温や雪質、積雪量も違います。この変化があるからこそ、同じ方角に斜面が向いているスキー場とはまったく違う体験を得られます。猫魔スキー場が経営再建しなければならないというとき、私たちが手を挙げたのがスタートでしたが、迷いはありませんでした。
連結の野望が原発事故とコロナ禍を乗り越える原動力に
──2011年の東日本大震災が引き起こした原発事故による風評被害をこうむり大打撃を受けました。幾多の苦難をどのように打開していったのでしょうか?
投資家にもアルツ磐梯と猫魔スキー場の連結を説明していました。北海道のトマムも含めて同じ海外の投資ファンドから出資してもらいながら改善を進め、双方ともに収益は伸びていましたが、その運命を分けたのが東日本大震災による原発事故ですね。これにより福島側の事業は完全に止まりました。のちにスキー場は再開しますが、そこから新たな投資となるとファンド側も非常に消極的で厳しい時期でした。
ここで私たちも撤退するという手はありましたが、星野リゾートは“天の邪鬼”で、みんなができないと思い、外資系のファンドや金融機関も含めて福島の観光には投資できないなんてことを言われると、そこから上手くいく方法を探し、むしろやる気が出るというところがありまして(笑)。アルツ磐梯の運営を始めてから、震災時で8、9年経っていましたが、私たちの仲間が住んでいる地を見放すのではなく、改めて取得し直して再出発しようということにしました。ロジカルな判断ではなかった部分があったと思います。
──やはり、アルツ磐梯と猫魔スキー場の連結というビジョンが原動力になったのでしょうか?
そうです。これまでも、とても時間がかかることもあれば、短い時間でできることもありましたが、最初の計画を変えないというスタンスが私たちの強みです。最初にしっかりと分析したうえで検討して意思決定しますが、そこで決まったことはしつこくやり続ける。これが星野リゾートのよさなのだと思っています(笑)。実のところ、これが今まで再生を請け負ってきて失敗がなかった理由でもあります。
投資家目線だと、もう少し短期で利益を出してほしいということもあると思いますが、いろいろな事情が重なったうえで市場や競合に対しての事業戦略を展開していかなければならないので、想像以上に時間がかかる場合もあります。ただし、最初に決めたことが間違いだと思ったことはなくて、アルツ磐梯と猫魔スキー場を連結させることが一番正しい。どんな年月がかかろうとも可能性があるかぎり淡々と、それを目指す姿勢を崩すことなくここまで来ています。とても時間がかかってしまいましたが、1、2年遅れようが気になりませんでした。
運営会社の私たちは非上場の会社なので、短期的な利益を株主から求められることはなく、長期で取り組めるのが特徴です。軽井沢でスタートしてから109年経っている会社ですので、廃炉まで粛々とやる。それくらいの目線で、現在のネコマ マウンテンのポテンシャルに賭けようということが、私たちの当時の判断だったと思います。
表と裏を歩いて往来することで連結の意義を証明
──連結プロジェクトの発足から14年。その間、原発事故やコロナ禍に苦しめられました。ほかにも苦労話はたくさんあるかと思いますが。
様々ありましたが、ステークホルダーである福島県、磐梯町、北塩原村、それらの土地のオーナーである林野庁、そして国立公園に指定している環境省など、各関係者に連結の意義を理解してもらうことがとても大切でした。その大半の人たちはスキーやスノーボードをするわけではないですから、意義や意味、経済効果、そして、アルツ磐梯と猫魔スキー場が連結する重要性をご説明し、ご理解いただくためのステップを踏んできています。
ひとつ大きなステップを踏んだのが「雪上徒歩ルート」の設置です。今となってはあまり話題になっていませんが、あのルートをオープンさせたことは私たちにとって非常に大きかったと思っています。毎冬、林野庁さんと合意して雪上徒歩ルートを設定し、そのルートにロープを張って、歩いて行き来できる安全性について、ステークホルダーのみなさんたちに毎年、しっかり報告してきました。
──昨シーズン、僕も歩かせていただきました。すれ違うとき自然に挨拶を交わすなど、サーファーたちがビーチで声を掛け合うようなフレンドリーなカルチャーがあると感じました。
そうなんですよ。連結リフトを架けますと言ったときに、徒歩ルートはどうするんですか?と最初に聞かれることが多くて。むしろ、徒歩ルートを残してほしいというニーズもあります。積雪状況によって徒歩ルートが毎年異なるので、少しずつ景色が変わっていたこともすごく面白いです。歩くことでの気づきや、キレイだと思える瞬間がありますから。これもひとつ、やり切ったと自負できる重要なステップだったと思っています。
そうした地道な努力を通じて、連結することに対する消費者の反応や、それを安全にやり切る私たちのコミットメントというものを知っていただく。こうしたことが、最終的にここにリフトを架けるという判断に至るまでの、ものすごく大きな下地になったと私は思っています。
後編へ続く
星野佳路(ほしの・よしはる)
星野リゾート代表。1960年、長野県軽井沢町生まれ。1983年、慶應義塾大学経済学部卒業。米・コーネル大学ホテル経営大学院修士課程修了。1991年、星野温泉(現在の星野リゾート)社長(現在の代表)に就任。所有と運営を一体とする日本の観光産業でいち早く運営特化戦略をとり、運営サービスを提供するビジネスモデルへ転換。現在、運営拠点は、独創的なテーマが紡ぐ圧倒的非日常「星のや」、ご当地の魅力を発信する温泉旅館「界」、想像を超えて、記憶に残るリゾートホテル「リゾナーレ」、テンション上がる「街ナカ」ホテル「OMO(おも)」、みんなでルーズに過ごすホテル「BEB(ベブ)」の5ブランドを中心に、国内外68カ所に及ぶ。
interview + text: Daisuke Nogami(Chief Editor)
eye catch photo: Yuto Nishimura(HANGOUT COMPANY)