BACKSIDE (バックサイド)

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https://backside.jp/gokuraku_banked_slalom/
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FEATURE

富山からスノーボード界の“極楽”を生んだ水間大輔。ローカル魂の結晶「GOKURAKU BANKED SLALOM」10年超の歩み

2025.12.11

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2025年2月、富山・立山山麓で「GOKURAKU BANKED SLALOM(以下、極楽バンクド)」が開催された。会場となる極楽坂エリアの駐車場は、朝からほぼ満車に近い状況。400人近い参加者が集まり、ゲレンデ脇にはメーカーや飲食のブースが並び、音楽に乗りながらクラフトビールを片手に談笑するスノーボーダーの姿がある。大会の会場というより、スノーフェスかのような様相を呈していた。
マイクを握って進行を司り、参加者を迎え、トラブルにも対応し、バンクドコースを力強く駆っていた男が、本記事の主役である。立山エリアをフィールドに活動するバックカントリーガイドであり、MOUNTAIN HARDWEAR(マウンテンハードウェア)所属ライダーであり、このイベントの発起人、水間大輔だ。
極楽バンクドは、単なる“ローカルイベント”ではない。彼が富山で見た現実に対するカウンターであり、スノーボードというカルチャーを富山という土地に根づかせるための手段である。なぜ彼は、10年以上にわたって続けているのか。その答えを、水間に聞いた。
 

水間によるオープニングの挨拶。木々に降り積もった雪が、当日のコンディションを物語っている

 


「富山で滑らない富山のスノーボーダー」を変える決意

水間は、20代後半と比較的遅いタイミングでプロ資格を取得し、当初はハーフパイプを中心に大会を転戦していた。その後バックカントリーにのめり込み、拠点を地元・富山に戻す。地元のプロショップで働きながら、来店するスノーボーダーにこう尋ねたという。「どこで滑ってるんですか?」
返ってくる答えは、新潟、郡上、白馬……。富山以外の名前ばかりだった。
「圧倒的に、富山で滑ってるって人は少なかったんです。理由を聞くと『富山はつまらないから』って。だけど、僕は地元に戻って立山山麓で滑ったときに“こんなに面白いのになんで滑らないんだろう?”って純粋に疑問でした」
富山には十分に滑れる山がある。だが、地元のスノーボーダーがその価値に気づいていない。富山で育ったにもかかわらず、富山の山に誇りを持てていない。その状況は、水間には“ドーナツ化現象”のように見えた。
「世代を超えて集まれる場がない。ローカル意識も育っていない。このままじゃ富山の雪山は、地元のものとして愛されないままだと思ったんです。だからこそ、どんな世代でも参加できて、楽しめて、“富山で滑る理由”になるようなイベントを作ろうと考えました」
そうして2014年、極楽バンクドはスタートする。日本を代表する「TENJIN BANKED SLALOM」が始まったのが2010年なので、国内でも比較的早いバンクドスラロームイベントのひとつである。
会場に選んだのは、立山山麓・極楽坂エリア。水間にとってのホームであり、富山エリアでは最大級のゲレンデだ。
「最初は嫁さん(佐織さん)とふたりで全部やってました。コースの作り方もわからない状態だったので、ゲレンデのオープンからクローズまで、毎日手掘り。第1回大会には70~80人くらい集まってくれたんですが、正直、完走できたのは2割くらい(笑)」

コースが難しくなった背景には理由がある。極楽バンクドは、設立当初から「親と子供が同じ土俵で一緒に楽しめる大会」をコンセプトに掲げてきたからだ。
「親と子供が、本気で同じことで熱くなって、帰りのクルマの中で同じ会話ができるような、“スノーボード運動会”をやりたかったんです。トップを決めるだけの大会ではなく、世代をまたいで一緒に思い出を作る場にしたかった」
いっぽうで、現実は厳しかった。ゲレンデ側の理解を得られず、コースの設置場所を制限された時期もある。スポンサー協賛金もなく、大会は常に赤字だった。運営費は夫婦の自己負担。コース造成、運営、当日の進行管理まで、ふたりで回すしかない。当然、夫婦喧嘩は絶えなかった。
 

現在は多くのスポンサー各社が極楽バンクドに価値を見出している

 
「正直、毎回“今年で終わりかもしれない”と思っていました。参加者が集まらなかったら赤字。人手は足りない。コースは雪が降るたびに埋まる。何度も投げ出したくなりました」
それでも続けたのは、富山でスノーボードを続ける意味そのものを、自分の手で作ろうとしていたからだ。
「“スノーボーダーとして食えるわけがない”って、ずっと言われてきたんです。でも、それがイヤで。フリースタイルで世界トップにはなれないけど、バックカントリーの領域では絶対に抜きん出てやろうと思っていました。自分のスノーボード人生と、極楽バンクドは同じベクトルなんです。“絶対に負けたくない”って気持ちで、どっちも続けてきました」
水間は、日本海から立山まで歩いてバックカントリーを滑る「SEA TO SUMMIT」や、立山に20日間滞在して滑走する企画を打ち立てるなど、独自のアプローチで自身の価値を高めていく。それと並行して、極楽バンクドを地道に育てていった。
その結果、少しずつ景色は変わり始める。
「4、5回目と回を重ねるごとに、手伝ってくれる仲間が集まってくるようになりました。県外からも参加者が来るようになって、富山で滑る人も明らかに増えた。『自分は立山山麓のローカルだ』って誇りを持つスノーボーダーが育っていったんです」
 

多くの仲間たちが、水間とともに極楽バンクドを創り上げている

 
極楽バンクドは、富山のスノーボーダーに「ここで滑る理由」を与える場所になっていった。
 


失った信頼を取り戻すために。不屈の精神でミラクルを起こす

極楽バンクドの歩みは、順風満帆ではなかった。むしろ、大きく揺らいだ局面もある。
ある年、計測体制の不備なども重なり、一般参加者がトップライダーを大きく上回るタイムで“優勝”と発表されてしまった。あとから録画していた参加者などから厳しい指摘が殺到した。
「ものすごいクレームが来ました。僕自身、ベッドから出られないくらい落ち込みました。だけど、逃げられないと思った。優勝として発表してしまった人にも、上位だったライダーたちにも電話して謝りました。“自分の不手際でこういう結果になってしまった。本当に申し訳ない。二度と繰り返さないようにするので許してください”って」
同時に、長年の手弁当運営が生む別のひずみもあった。コース整備用の機材トラブルから人間関係の摩擦にまで発展し、信頼を失いかけた瞬間もある。
「仲がいいと思っていた先輩と衝突したこともありました。“うまくいくわけないだろ”って見られてたのも正直あったと思うし、自分でも“ここで折れたら全部終わる”っていう感覚がありました」
それでもやめなかった理由は明快だ。
「富山はメジャーなエリアではないと言われ続けてきたけど、立山には世界に誇れるフィールドがある。なのに、富山ってどんなところ?って聞かれたら、名前が出てこない。それが悔しくて。だから“カウンターカルチャーになってやろう”と思ってたんです。富山のカルチャーはここにあるんだ、って」
 

2023年秋の立山。Mountain Hardwearが贈る映像作品『大日(BIG DAY)』で吉田啓介とタンデムラン。前を滑るのが水間
photo: HOLY

 
ここから、状況は一気に変わっていく。
第7回大会から、MOUNTAIN HARDWEARが極楽バンクドの正式スポンサーとして入るようになる。
「『サポートしてください』とは一度も言いませんでした。その代わり『遊びに来てください』とは何度も言いました。実際に来て、見て、感じてほしかったんです。お金の話じゃなく、価値として認めてほしかったから」
ブランド側が現地でその熱量を確認し、イベントへの支援を打ち出したことで、極楽バンクドは大きな後ろ盾を得ることになる。会場にはMOUNTAIN HARDWEARのテントが張られ、富山のゲレンデにそのギアを身にまとうスノーボーダーが目に見えて増えていく。ローカルの熱量とブランドの技術が、そこで直に交わるようになっていった。
 

水間をサポートするMOUNTAIN HARDWEARは、極楽バンクドも支えている

 
さらに2023年には、テリエ・ハーカンセンが極楽バンクドに参戦し、優勝をさらっていった。
「テリエが参加してくれたのは、本当に夢みたいでした。事前にオンラインでミーティングして、僕らが何をやってきたのか、富山がどういう場所なのかを全部話しました。そしたら『絶対に行くよ』って言ってくれて。告知にも顔を出してもらって、当日は本当に来てくれたんです」
ゴールエリアには、テリエのためにクォーターパイプも用意した。本人はワンフットのアーリーマックを披露し、観客はいっせいにカメラを向けた。最後のスピーチで、テリエはこう述べたという。
「富山というよく知らない土地に来たけれど、人々が温かくて、ローカルのコミュニティがしっかりしていて、こんなに気持ちのいい大会を10年近く続けていることは本当にすごいことだと思う。これを続けているローカルたちに敬意を表したい」
 

極楽バンクドへ、“スノーボードの神”からの言葉

 
このひと言が、富山というローカルにとって決定的な意味を持った。
「それまでは、“なんとなく面白いことをやっている”程度だった周囲の見方が、“これは富山のカルチャーだ”に変わった瞬間でした。続けていれば、こんなことが起こるんだっていうのを、みんなで共有できたんです」
 

目指したのは「スノーボード運動会」。そこにある“極楽”

極楽バンクドは、単なる「タイムを競う大会」ではない。水間自身もそこだけを目的にしていない。会場では、試乗会ブース、ギアの展示、地元の飲食、クラフトビール、ライブ。子供も大人も、プロも一般も、エントリーの有無にかかわらず、一日を楽しめる空気がある。水間は、そこに強いこだわりを持っている。
 

滑る以外の楽しみもふんだんに詰め込んだ極楽バンクド

 
「僕の理想は“スノーボードフェスティバル”なんです。そこにバンクドスラロームという催しがある。大会だけじゃなくて、朝から晩までスノーボードで遊べる日を用意したい。ビールを飲んで、音楽を聴いて、ギアを触って、“今日は雪山に来てよかった”と思って帰ってほしいんです」
このイメージは、彼が若い頃にアメリカ・コロラドで体験したコンテスト「DEW TOUR」の記憶と重なる。出場ライダーにはテント内でのフードやドリンクが無償で提供され、夜には大物アーティストのライブが組まれる。競技と音楽と遊びが並列にあった。
「大会って勝ち負けだけじゃなくて、もっと、スノーボードって最高だなって感じられる場でいいはずなんですよね。それを富山でやりたかった」
だからこそ、極楽バンクドのコース設計も一貫して「親子で同じ話題を共有できること」を軸にしている。子供が直滑降したときに恐怖を感じる手前でラインを曲げる。踏める大人はパンピングでスピードを上げられる。誰もが自分のレベルで“熱くなれる”ように調整しているのだ。
「子供と大人が同じ土俵で本気になって、『楽しかったね』とか『来年は勝とうな』と語り合える帰り道。それこそが、このイベントの意味なんです。天神は最高峰の舞台。でも極楽バンクドは、“スノーボード運動会”でいいと思ってるんです」
 

キッズスノーボーダーたちの姿も目立った

 
現在、エントリーは400人規模にまで膨らみ、ほぼ限界だという。大会として単純に参加枠だけを広げるのではなく、会場全体をフェスとして成熟させていくことが、これからのテーマになる。
「試乗会だけ参加したい人がふらっと来ても浮かない場所にしたいし、ライブやフードだけ楽しみに来る人も歓迎したい。そこから、ここって何をやってるイベントなんだろう?って、バンクドや立山山麓や富山のことを知ってくれたら、それでいいんです。極楽バンクドと立山山麓、富山という土地が一緒に上がっていく状態をつくりたい」
イベント名の「極楽」には、会場となる極楽坂エリアの名称だけでなく、もうひとつの意味がある。
「立山には立山曼荼羅っていう世界観があって、地獄と天国、つまり極楽浄土を表現しているんですよ。立山山麓と立山は地続きでつながっていて、自分たちがやっているこの場所も“極楽”だと言いたかったんです」
富山という土地に根ざし、そこにいる人が誇りを持てる“極楽”を、自分たちの手でつくる。その意思が、このイベントを10年以上動かし続けてきた原動力である。
立山山麓の雪は、いまや県外からも人を呼ぶ理由になった。MOUNTAIN HARDWEARのテントが張られ、ギアが並び、地元の食と音楽が混ざり合う一日がある。トップライダーも子供も同じスタートに立ち、同じゴールエリアで笑っている。
 

日が沈んでも最後まで遊び尽くすローカルたち

 
「スノーボード界の“極楽”を、自分たちの手で富山に創りたかったんです」
水間の挑戦は、まだ終わっていない。

text: Daisuke Nogami(Chief Editor)
photos: Kenta Nakajima
special thanks: Mountain Hardwear

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