BACKSIDE (バックサイド)

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20906

COLUMN

スノーボードを世界的に周知させたスケートボードの文化価値

2021.07.27

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東京五輪から採用されたスケートボード・ストリートで男女ともに日本人ライダーが金メダルを獲得したことを受け、スノーボードがそうだったように日本中で大きな注目を集めている。1998年の長野五輪からボードスポーツでもっとも後発のスノーボードが正式種目に採用され、それ以来の日本開催となった東京五輪でスケートボードとサーフィンが追加種目になったことは、横乗りを愛するひとりの日本人として誇らしい。順番は大きく異なってしまったが、感慨深いものがあるのは筆者だけではないだろう。
 
波がないときにサーファーたちが乗り出したことでスケートボードが普及し、雪上でマニューバーを描きたいという想いからスノーボードが誕生したように、どちらもバックグラウンドにはサーフィンがある。1950年代にスケートボードが誕生し、1970年代に入りスノーボードが産声をあげると、それぞれが独自に進化していくなかで、スケートボーダーたちがプールやバートで培ったライディングスキルを雪山でトレースし始めた。
 
バートに夢中だったテリー・キッドウェルは1970年代後半にスノーボードと出会い、当時はリゾートでの滑走が禁止されていたことからバックカントリーでパウダーライディングに明け暮れ、天然クォーターパイプでスケートボードさながらのトリックに興じていた。ここがフリースタイルスノーボーディングの起源とされているのだが、その後、スケートライクなスノーボードが映像作品として発表されたことにより加速度的に世界中に浸透していく。
 
その功労者として、4年前に他界してしまったノア・サラスネックが挙げられる。1970年に米カリフォルニア州で生まれ、6歳からスケートボードを始めた。H-STREET(エイチストリート)から自身のモデルをリリースするなど、プロスケートボーダーとして活躍。その後、18歳のときにスノーボードを始めた。
 
そして1990年、後にスノーボード界のトップ映像プロダクションとなるMACK DAWG PRODUCTIONSは当時スケートボードの映像制作を主に行っていたのだが、ノアの依頼で初めてオンスノーでの撮影を敢行。数年後に『ROADKILL』『R.P.M.』といった名作を世に送り出すFALL LINE FILMSとの共同制作により『NEW KIDS ON THE TWOCK』が誕生した。スケートボードのアクションはもちろん、その文化価値がスノーボードと融合したことで生まれた新たなるムーブメントが瞬く間に世界中で市民権を得ることにつながった。
 
その文化価値とは、自由な発想から生み出されるクリエイティブな思想。想像力を駆使し、ゲレンデ内に点在する自然地形に己をアジャストさせながら、個性的な自分らしいトリックを繰り出す。体育文化にはないフリースタイルという遊びに、当時の若者たちは熱狂した。
 
だからこそ業界関係者はもちろん、多くのスノーボーダーはスケートボードをリスペクトしており、今般のメダリスト誕生を心から祝福している。そして、ボードスポーツの二刀流として名を馳せる平野歩夢の夏冬五輪挑戦という道なき道につながっているのだ。

photo: Dano Pendygrasse

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