BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

フリースタイルスノーボーディングが、もっとも自由だった90年代【BURTON50周年特別企画】BELIEVING IN SIDEWAYS Vol.2

2026.10.30

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新品のハイバックを電動ノコギリで切り落とす。ノーグローブで空中へ飛び出し、ガニ股でスピンする。街の手すりをコスる。急峻な斜面をハイスピードで駆け抜け、アラスカの巨大なスパインに飛び込む。
 
いまでは当たり前になったフリースタイルスノーボーディングの表現も、かつては誰かが常識を破ったことで生まれた。
 
1987年から1997年。その10年間、スノーボーダーたちは、まだ名前もついていないライディングスタイルを次々と生み出していた。手本がなければ自分で考え、実践する。道具が合わなければ改造する。滑る場所がなければ探しにいく。
 
メーカーや大会が進むべき方向を示したのではない。ライダーが先に動き、スノーボードの世界がその後を追いかけた。
 
BURTON(バートン)が創業50周年を記念して公開した映像シリーズ『50 Years of Snowboarding』。第2章のタイトルは、『LISTEN TO THE RIDERS(ライダーの声を聴け)』だ。
 
スノーボードが急速に普及し、産業として成長していく傍らで、ライダーたちは自分たちの遊びを、自らの手で作り変えていた。

ライダーが、道具を変えた

新品のバインディングを買って、真っ先にハイバックを切り落とす。
 
いま考えれば、ずいぶん乱暴な話だ。だが1990年代初頭、スケートボードのように自由に身体を動かしたかったライダーたちにとって、それはごく自然な選択だった。
 
高いハイバックはターンを支えてくれる。しかし、スケートボードのように足首をもっと自由に使いたいときには邪魔になる。だったら、切ってしまえばいい。筆者も電動ノコギリを手に、新品のハイバックを短くしたひとりである。
 
そうしたライダーの欲求を、製品開発へとつなげていったブランドがBURTONだった。ハイバックを低く設定したLO-BACKバインディングや、足首の自由度を重視したSTUMPYブーツなど、スケートライクな動きを求めるライダーに応えるプロダクトを世に送り出していく。
 
ここで時代を少し巻き戻したい。BURTONがライダーの声に耳を傾けるようになったのは、この頃からではない。その礎を築いたのが、クレイグ・ケリーだった。
 

1991年、米カリフォルニア州スコーバレーにて、カナディアンベーコンで宙を舞うクレイグ・ケリー
photo: Stefan Fiedler

 
1980年代後半、コンテストで勝利を重ね、世界中のスノーボーダーを魅了していたクレイグ。彼がSIMS SNOWBOARDS(シムス スノーボード)からBURTONへ移籍する際に求めたのは、単なるスポンサー契約ではなかった。
 
自分の滑りに必要な道具を、自分の意思で作ること。
 
ジェイク・バートンは、その要求を受け入れた。ライダーが開発に深く関わり、雪上で感じたことが次の製品に反映される。1989年に登場したクレイグのシグネチャーモデル「MYSTERY AIR」は、そうした関係を象徴する一本となった。
 
BURTONはクレイグらライダーたちの声に耳を傾け、特に足元を支えるプロダクトを進化させていった。当時、他社のボードにBURTONのバインディングとブーツを組み合わせるライダーが珍しくなかったのも、その信頼を物語っている。
 
やがてクレイグは1992年、コンテストから退き、バックカントリーでのフリーライディングへ軸足を移す。勝つために磨いてきた技術を、今度は誰も採点しない山の中で自由に表現する。世界の頂点に立ったライダーが選んだ次の舞台は、コンテスト会場の外に広がっていた。
 

コンテストを離れ、バックカントリーでのフリーライディングを追求していたクレイグ・ケリー。1996年撮影
photo: Gordon Eshom

 
滑る舞台が変わっても、道具への探究心は変わらない。1994年のFREESTYLE BINDINGでは、ストラップの間に独自のタンを取り付け、ダクトテープで固定。レスポンスを高めながら、トゥイークできる自由度も確保しようとした。そのアイデアをBURTONの開発チームが改良し、製品化へとつなげている。
 
ほしいものがなければ、自分で作る。滑り手のアイデアを、メーカーが製品として形にする。そのプロダクトが、また新しい滑りを生み出していく。


ライダーが、カッコよさを変えた

ボードをしならせながら、雪面の起伏でオーリーを仕掛けて飛び出し、空中でシフティする。それまでのスノーボードとは、明らかに動きが違った。
 
1990年代初頭、スケートボードの感覚を雪上に持ち込んだノア・サラスネックは、トリックの難易度だけでは測れない新しい価値観を広めていった。同じジャンプでも、どう飛ぶかでカッコよさは変わる。どんな体勢で、どれだけ自分らしい動きを見せられるか。ノアのスケートライクなライディングスタイルは、フリースタイルの評価軸そのものを揺さぶった。
 
ジェイミー・リンは、その自由をさらに押し広げる。上半身と下半身を大胆にひねったメソッド。ガニ股で繰り出す独特のスピン。ときにはグローブさえ着けず、誰とも違うシルエットで宙を舞う。
 
彼の滑りを見れば、トリックの名前を知らなくてもジェイミーだとわかる。それほど、動きそのものに個性が刻まれていた。シアトルの音楽やアートと結びついた彼のスタイルは、フリースタイルスノーボーディングが競技である以前に、自己表現でもあることを鮮やかに示した。
 
ブライアン・イグチもまた、既存の枠に収まらないライダーだった。スケートボードのようにハーフパイプを駆け巡り、サーフィンのようにゲレンデ全体を流れるように滑る。トリックをひとつずつ見せるのではなく、ターンからジャンプ、着地から次のアクションへと、滑り全体をひとつのフローにしていく。
 

1994年、米ウィスコンシン州タイロルベイスン。自由な発想でハーフパイプの遊び方を広げていた、ブライアン・イグチのスイッチライディング
photo: Jeff Curtes

 
ノア、ジェイミー、イグチ。彼らの滑り方は同じではない。むしろ、違っていることに意味があった。
 
そんなライダーたちの個性を、世界へ届けたのがスノーボードムービーである。FALL LINE FILMSの『ROADKILL』や『R.P.M.』、MACK DAWG PRODUCTIONSの『THE MELTDOWN PROJECT』。映像の中でライダーたちは、勝敗も順位も関係なく、個々のスタイルを見せつけていた。
 

 
流れる音楽、身にまとったウエア、仲間との何げない時間。そのすべてがライディングと結びつき、一本の作品へと昇華する。ビデオテープがすり切れるほど繰り返し観て、週末には雪山でマネをする。思いどおりにできなくても、少しだけ近づいた気がする。
 
SNSも動画配信サービスもなかった時代。世界中のスノーボーダーは、そうやって海の向こうのライダーたちとつながっていたのだ。
 
BURTONの広告も、単に製品の性能を伝えるものではなくなっていく。ライダーの写真を大胆に使い、スケートカルチャーを思わせるグラフィックを重ねる。そこに描かれていたのは、ボードのスペック以上に、そのプロダクトを使ってどんな世界を楽しめるのかということだった。
 

バックサイド・シフティのシークエンス写真をコラージュ。1994年に注目されたBURTONの広告ビジュアル。ライダーはブライアン・イグチ
photos: Jon Foster

 
ライダーたちは、スノーボードの滑り方だけでなく、何をカッコいいと感じるのかという価値観まで変えていった。その感覚は、30年以上が過ぎたいまも受け継がれている。


ライダーが、滑る場所を変えた

雪が積もった街の階段。道路沿いの縁石。建物の脇に延びる手すり。普通なら、滑る場所だとは考えない。だが、スケートボードの感覚を持ったライダーたちには、違って見えていた。
 
1990年代初頭、ネイト・コールやデイル・レバーグ、ロン・ロジャースらは、レールや人工物を使った新しい滑りを切り拓いていく。ゲレンデの中にあるものだけでは飽き足らず、街そのものを遊び場に変え始めた。
 
そこに雪があれば、滑れるに違いない。その発想は、やがてJPウォーカーやジェレミー・ジョーンズらの世代へと受け継がれる。1997年のMACK DAWG PRODUCTIONS『SIMPLE PLEASURES』では、JPのジビングが新しい時代の到来を予感させた。
 
誰かが用意したコースを滑るのではない。自分で滑る場所を見つけ、自ら遊び方を考える。ストリートスノーボーディングは、そんな衝動から広がっていった。
 
いっぽう、大自然が織りなす雪山の地形に、それまで誰も想像できなかったラインを描くライダーも登場する。1995年、STANDARD FILMSの『TB5』に収められたノア・サラスネックのライディングは、その可能性を鮮烈に示した。
 
アラスカ・バルディーズ。巨大なスパインが連なる急斜面に、ノアがドロップする。流れるサウンドは、オジー・オズボーンの『Over the Mountain』。細いスパインをつなぎ、落ちるような急斜面を滑り下りていく。数年前までスケートボードのような動きでゲレンデを遊んでいた男が、今度は圧倒的なスケールの自然地形を相手にしていた。
 
同じ作品では、ヨハン・オロフソンが40°を超える斜面を35秒で900m以上滑降する。あまりにも速く、あまりにも衝撃映像だった。
 
そして1996年、スウェーデンのリクスグレンセン。King of the Hillで、インゲマー・バックマンが巨大なクォーターパイプから飛び出した。天高く舞い上がり、身体を大胆にひねったメソッドエア。その一撃は各国のスノーボード誌を飾った。人工的に造られたクォーターパイプから、ここまで高く飛べるのか。世界中のスノーボーダーに衝撃を与えた。
 

 
街の手すりをコスることと、アラスカの巨大な斜面にラインを刻むこと。一見、正反対のように見える。だが、どちらも出発点は同じだった。
 
あの場所で滑りたい。あんな荒々しくも優雅に宙を舞いたい。まだ誰もやっていないなら、絶対にオレがやってやる。
 
ライダーたちの欲求は、BURTONをはじめとするメーカーのプロダクト開発を刺激した。そして、彼らが生み出したライディングを、フォトグラファーやフィルマーが記録した。映像と音楽がその熱を世界へ運び、次のライダーがまた新しい遊び方を生み出していく。
 
1997年、スノーボードは巨大な産業に成長していた。競技の舞台は広がり、外部から資本が流れ込み、ライダーたちが生み出したカルチャーにも新たな価値が見いだされるようになる。
 
だが、その世界が大きくなればなるほど、ひとつの問いが浮かび上がる。スノーボーダーは、自分たちが育んできたカルチャーを守り続けることができるのか。

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

 

 
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