FEATURE
30年前、世界を変えた巨大バックサイドエア。インゲマー・バックマンがその記憶を未来へ紡いだ「KOTH30」
2026.09.28
1996年5月、スウェーデン最北部のリクスグレンセンで、スノーボード史に残る一枚の写真が生まれた。
King of the Hill(KOTH)で、インゲマー・バックマンが放った巨大なメソッドエア。その一枚は世界中のスノーボードメディアを席巻し、30年を経た今も語り継がれている。
そして2026年5月。
インゲマーは再びリクスグレンセンに、世代を超えたスノーボーダーたちを集めた。1996年のKing of the Hillから30年。「KOTH30」と題されたこのイベントに、いまを生きるスノーボーダーたちが一堂に会した。
この一枚は、BACKSIDEにとっても特別な意味を持つ。
2016年、BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINEは、このメソッドエアをISSUE 0の表紙に掲げてスタートした。
「20年の時を経て。20年先を見据えて。」──あれから10年。BACKSIDEは創刊10周年を迎えた。
なぜ30年前の一発は、これほど長い時間を経てもなお、スノーボーダーたちの記憶に残り続けているのか。そして、なぜインゲマーは30年後、再びリクスグレンセンに仲間たちを集めたのか。
その物語をたどると、さらに5年前の1991年に行き着く。15歳だったインゲマーと、ひとりのスノーボーダーとのストーリーが、すべての始まりだった。
1996 ── あの伝説のエアが、すべてを変えた。
1996年当時、スノーボードを取り巻く情報環境は今とはまったく違っていた。スマートフォンもSNSもない。世界のトップライダーがどんな滑りをしているのかを知るには、その場に居合わせるか、次号のスノーボード誌が発売されるのを待つか、秋になって新作ムービーが公開されるのを待つしかなかった。
そんな時代の1996年5月、リクスグレンセンでKOTHのクォーターパイプ決勝が行われた。インゲマーは5位。残されたチャンスは、あと一本。
そこで彼は、それまで乗っていたものより長いボードに履き替える。その姿を見たスウェーデンのフォトグラファー、ヴィンセント・スコグランドが「なぜ?」と尋ねた。
インゲマーは、こう答えたという。
「世界で一番デカいバックサイドエアを決める」
そして、これまでよりもスタート位置を約30m上げ、ドロップイン。クォーターパイプへ突っ込み、空へ向かって舞い上がる。インゲマーが放った巨大メソッドは、スノーボード史に刻まれる一発になった。

1996年秋に発売されたスウェーデンのスノーボード誌「FUNSPORT SNOWBOARD」に掲載された特集記事
その瞬間には、ひとつの逸話も残されている。
Mack Dawg Productions(MDP)の主宰者、マイク・マッケンタイアは16mmカメラで撮影していたものの、インゲマーが飛ぶ直前にフィルムを使い切ってしまったという。しかし、スウェーデンのフィルマー、ピエール・ウィクバーグが、その一発を撮影していた。その映像はMDP作『STOMPING GROUNDS』のオープニングを飾ることになる。
その写真は、世界の主要なスノーボード誌の表紙を飾った。1996年は、北欧から現れたライダーたちが世界のフリースタイルスノーボーディングに強烈なインパクトを与えた時代でもある。インゲマー、テリエ・ハーカンセン、ヨハン・オロフソン、ダニエル・フランクら。同年にリリースされた『TB5』『Subject: Haakonsen』といった作品にも、北欧勢が数多くフィーチャーされていた。

インゲマーとピーター・ラインが、自身たちのアウターウエアブランド「FOURSQUARE」の広告に使用した各国誌の表紙
その大きなうねりのなかで生まれた一枚が、インゲマーのメソッドだった。人工物で、これほど巨大なエアを放つことができる。その事実を世界中のスノーボーダーに突きつけたあの一撃は、当時のフリースタイルスノーボーディングの可能性を大きく広げたと言っても過言ではない。
のちにスノーボードは、巨大エア化の一途をたどっていく。滞空時間を獲得したライダーたちは、トリックを急激に進化させていった。高回転化が著しい昨今ではあるが、そのいっぽうで、高く飛ぶこと自体の価値は、今も昔も変わっていない。
今年3月、「THE SNOW LEAGUE」で平野海祝がハーフパイプにおけるハイエストエア世界記録を樹立した。その高さは7.72m。奇しくも、そのエアもメソッドだった。
2016年、BACKSIDEを立ち上げるとき、すでにトリックの高難度化には歯止めがきかない状態だった。オリンピック種目として確立し、高難度トリックがメダルの色を左右するのだから、なおさらだ。
そうした時代だったからこそ、シンプルでありながら奥深いメソッドで天高く宙を舞うインゲマーのバックサイドエアを、ローンチ時に制作したISSUE 0の表紙に採用させてもらった。
BACKSIDEは、その表紙にこう記した。
「20年の時を経て。20年先を見据えて。」
1996年から2016年へ。過去を懐かしむためではなく、その時代のスノーボーダーたちが持っていた自由な発想や表現を受け取り、その先のフリースタイルスノーボーディングを考えるためだった。
しかし、1996年に世界中のスノーボーダーを驚嘆させたインゲマーにも、原点となった一発がある。それは大勢の観客の前で決めたものではない。世界中のメディアが撮影していたわけでもない。
その場で見ていたのは、たったひとりの男だった。
1991 ── クレイグ・ケリーが見守った、あの一発。
1991年5月。15歳の誕生日を迎えたインゲマーに、両親は特別なプレゼントを贈る。リクスグレンセンで開催される「Craig Kelly Snowboard Camp」への参加権だった。
当時のインゲマーは、スノーボードを始めてまだ2シーズン目。本人の言葉を借りれば、“小さなスケートボードキッズ”。このキャンプで初めてハーフパイプを滑った。
現在のようにマシンで整備されたものではない。自分たちの手で掘ったハーフパイプだった。
キャンプも終わりに近づいたある日の夕方。インゲマーは、そのハーフパイプで新しいトリックに挑戦していた。それまで見たことのなかったトリックだったという。
回転はできる。グラブもできる。しかし、そのふたつを空中で組み合わせることが、どうしてもできなかった。
何度もトライしては失敗。そして再びドロップイン……それを繰り返しているうちに時間は過ぎ、やがてリフトも止まった。インゲマーが周囲を見渡すと、ハーフパイプにはもうほとんど誰もいなかった。
残っていたのは、自分ともうひとり。キャンプの主宰者である、クレイグ・ケリーだった。クレイグは、少年が新しいトリックに挑み続ける姿を見ていた。やがて、インゲマーがドロップするポイントまでやってくると、クレイグは声援を送り始めたそうだ。

リクスグレンセンに残る、クレイグ・ケリーの記念碑
photos: Elias Koli (left) and Lina Adams
クレイグは言った。「あと3回だ」と。しかし、その3回もすべて失敗に終わった。
すると、クレイグはもう一度だけチャンスをくれた。最後の一回。インゲマーは再びハイクアップした。
天候は悪かった。フラットライトで壁は見えづらく、風も吹いている。それでもクレイグは帰ることなく、ハーフパイプに残っていた。クレイグが見てくれている。だからこそ、どうしても決めたかった。
インゲマー少年は、ドロップインした。バックサイドウォールへ向かい、タイミングを計ってテイクオフ。リップを抜け、スピンを仕掛けながら空中へ飛び出して、グラブ。そして、見事ストンプ。バックサイド540カナディアンベーコンを初めてメイクしたのだ。
クレイグは拍手して喜んでくれた。インゲマーも興奮した。35年後に本人が綴った文章には、その瞬間が「自分にとって魔法のような時間だった」と記されている。インゲマーはそのとき、クレイグ自身もこのトリックを見たことがなかったのではないか、と考えたという。
ホテルに戻ると、友人たちにその出来事を話した。だが、誰も信じてくれなかった。今でも信じていないかもしれない、とインゲマーは笑う。
しかし、本人にとっては、そんなことはどうでもよかった。
「あれが、自分のスノーボードキャリアの始まりだった」
数年後、インゲマーは世界を旅するプロスノーボーダーになった。インスブルック、東京、ロサンゼルス、ロンドン、パリ、サンパウロ……など、何万人もの観客の前で滑り、世界中のメディアに取り上げられる存在へ。
そして1996年、同じリクスグレンセンで、世界中のスノーボーダーが知ることになる巨大メソッドを放つ。
だが、35年の時間が流れた今も、彼にとってもっとも特別なトリックは変わらない。
1991年5月。大観衆の前でも、カメラの前でもない。
たったひとりの特別な人の前で決めた、バックサイド540だった。
2026 ── 30年後、再びリクスグレンセンへ。
あれから35年。そして、世界を驚かせた巨大メソッドから30年。
2026年5月、インゲマーは再びリクスグレンセンにいた。「KOTH30」が開幕。そこには1990年代から現在まで、いくつもの世代を代表するスノーボーダーたちが集まった。テリエ・ハーカンセン、フリチョフ・ティッシェンドルフ、セッベ・デ・バック、ハルドル・ヘルガソン、レネ・リンネカンガス、ギギ・ラフ、ハナ・ビーマン、ゲイブ・ファーガソンら。
1996年のKOTHが始まる直前まで、リクスグレンセンではテリエと映像作家のデイブ・ショーンが『Subject: Haakonsen』を撮影していた。しかし、ふたりは大会が始まる前に現地を離れている。当時のスウェーデン誌「FUNSPORT SNOWBOARD」には、「来年はみんな、テリエがここにいることを願っている」と記されていた。
30年後。そのテリエが、リクスグレンセンに戻ってきた。KOTH30で再び交わったのは、ライダーたちだけではない。

シルエットだとしてもテリエとわかるだろうエア・トゥ・フェイキー
photo: Leo Cittadella
1996年にクォーターパイプを作ったデビッド・ニーは、30年後も同じようにクォーターパイプをシェイプ。あのインゲマーの一発を撮影していたヴィンセント・スコグランドは、スチールカメラからスマートフォンへ持ち替え、Instagramでセッションをライブ配信した。映像を残したピエール・ウィクバーグも、今度はイベント運営に携わった。30年前に同じ場所で歴史を作った人間たちが、再び同じ場所にいた。
いっぽうで、滑っているのはレジェンドたちだけではない。現在のシーンを牽引するライダーたちも、それぞれのスノーボーディングを表現した。レネがブッ飛び、ハルドルが独創的なラインを描く。フリッジことフリチョフは巨大な身体を複雑に回転させ、ルーカス・フォスターはアーリーウープ・マックツイストを繰り出した。テリエは、かつて同じリクスグレンセンで披露したエア・トゥ・フェイキーを再び描く。

30年前のインゲマーに敬意を表しながら巨大メソッドを放つ、レネ・リンネカンガス
photo: Daniel Mikkelsen
そして50歳になったインゲマーも、クォーターパイプから高く舞い上がった。彼が乗っていたのは、新たに復活させたATLANTIS SNOWBOARDS(アトランティス スノーボード)のボード。

30年の時を経てもなお、色あせない。メソッドエアで空中遊泳を楽しむインゲマー
photo: Elias Koli
ここ数年、インゲマーの周囲では過去と現在を結び直すような出来事が続いていた。2025年に公開されたスウェーデンのドキュメンタリー『Vi slutar aldrig(We never quit)』では、プロとして表舞台に立っていた時代から、その後の人生までが描かれた。
そこでは、彼の母が長年にわたり保管していた膨大なアーカイブも紹介されたそうだ。雑誌記事、広告、写真、ビブ、メモラビリア。インゲマー自身が20年以上「なくした」と思っていた、1996年のメソッドをたたき出した際に使用していたボードまで、母親の家に残されていた。
一時は売却することも考えたという。しかし、そのニュースが広がると世界中から「売るべきではない」「博物館に置くべきだ」といった声が届いた。結局、そのボードは売られることなく、30年後のKOTH30で会場に展示され、再び日の目を浴びるのだ。

「すべてはビジョンから始まる。進むべき方向を定め、未知へと続く道を進み続ける」。1996年5月、インゲマー・バックマンがバックサイドエアを放った場所に設置された記念プレートとボード
photos: Lina Adams (left) and Elias Koli
さらに2026年には、先述したように、90年代にインゲマー自身が乗っていたATLANTIS SNOWBOARDSを、MOONCHILD SNOWBOARDS(ムーンチャイルド スノーボード)とのコラボレーションによって「ATLANTIS GHOST TOWN」として復活させている。
失われたと思っていたボード。母親が残していた膨大な記録。かつて乗っていたブランド。そして、30年前に歴史的な一発を放ったリクスグレンセンの地。それらが2026年、ひとつの場所で再び交わった。
だが、KOTH30で起きていたことをもっとも象徴していたのは、そうした過去の品々でも、トップライダーたちの巨大なエアでもなかったのかもしれない。
1990年代初頭、クレイグとともにリクスグレンセンを滑り、この地のスノーボードカルチャーの形成にも関わったエリック・ロゼンフォース。彼は今回、自分の息子・ルーベンが同じクォーターパイプを滑る姿を見守っていた。そしてインゲマーは会場で、一枚の紙を配っていた。

親子でインゲマーの伝説を継承していく。息子のルーベン・ロゼンフォースを撮影するのは、父のエリック・ロゼンフォース
photo: Erik Rosenfors
そこに書かれていたのが、1991年5月、Craig Kelly Snowboard Campで起きたあの出来事。15歳だった自分。誰もいなくなったハーフパイプ。最後まで残ってくれたクレイグ。そして、最後の一回で決めたバックサイド540──。35年前の記憶を、自ら文章にして紙に印刷し、人々へ手渡した。
Instagramを開けば、KOTH30で起きていることを世界中からリアルタイムで見ることができる時代だが、クレイグとのもっとも大切な記憶を伝えるために、インゲマーが選んだのは一枚の紙だった。
考えてみれば、KOTH30そのものにも、どこか1990年代の空気が残っていた。公式ウェブサイトはない。大々的な事前プロモーションもない。情報源はInstagramと、仲間から仲間へ伝わる口コミ。招待された人もいれば、友人や業界関係者から話を聞いて現れた人もいた。毎朝、その日の予定はチョークボードに書かれた。わからなければ、人の流れについていけばいい。スマートフォンもSNSもなかった1996年と、あらゆる情報が瞬時に世界を駆け巡る2026年。そのふたつの時代が、リクスグレンセンで重なっていた。
1991年、クレイグから15歳のインゲマーへ。1996年、インゲマーから世界中のスノーボーダーへ。2026年、再びリクスグレンセンから次の世代へ。
30年前のKOTHをそのまま再現するのではなく、そこにあった記憶を現在のスノーボーディングと交わらせる。KOTH30は、そんなかけがえのない時間だった。
OUTRO ── 20年の時を経て、20年先を見据えて。
1996年から20年後。2016年8月、BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINEは創刊した。ISSUE 0の表紙に選んだのは、1996年のリクスグレンセンでインゲマーが放った、あの巨大メソッドだった。

2016年8月、BACKSIDE創刊時のローンチパーティー。壁面にはISSUE 0の誌面が展示された
photo: Hikaru Funyu
そこに掲げた言葉は、「20年の時を経て、20年先を見据えて。」
そして2026年。BACKSIDEは創刊10周年を迎えた。
10年前に「20年先を見据えて」と宣言してから、その道のりのちょうど半分まで来たことになる。そのタイミングで、インゲマーが30年ぶりに仲間たちをリクスグレンセンに集めた。
偶然と言えば、偶然なのだろう。
しかし、KOTH30で起きたことを見ていると、BACKSIDEが10年前にあの写真を表紙に選んだ意味を、もう一度考えずにはいられない。
この記事を制作するにあたり、インゲマーと何度もやりとりをした。
BACKSIDEは、フリースタイルスノーボーディングの文化を後世に残すためにスタートしている。「KOTH30」を通してインゲマーが過去と現在をつなぎ、次の世代へ何かを手渡そうとしている姿を見ていると、その思想はどこか重なっているように感じた。
クレイグとの時間を今も大切に抱き続けるインゲマー。その彼が1996年に放った巨大メソッドは、海を越え、日本のスノーボーダーたちにも大きな刺激を与えた。
そして30年後。日本には今、世界中から注目されるスノーボードカルチャーがある。
その価値を見つめ直し、後世へ残す。日本で育まれてきたスノーボードカルチャーを世界へ届けていく。それが、創刊10周年を迎えたBACKSIDEが次の10年で果たしていきたい役割だ。
10年前に見据えた「20年先」まで、あと10年。受け取ったものを、次へ。
そして、日本から世界へ。
words: Kenneth Erlandsen
top photo: Daniel Mikkelsen
edit + text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)




