BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【BURTON50周年特別企画】BELIEVING IN SIDEWAYS Vol.1「まだ誰も、雪山を横向きに滑っていなかった」

2026.09.24

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なぜあなたは、雪上を前向きではなく、横向きに滑る遊びを選んだのだろう。
 
カッコよかったからかもしれない。楽しそうだったからかもしれない。あるいは、言葉にできない何かに惹かれたのかもしれない。
 
では、その直感は、どこから生まれたのだろう。
 
いま、雪山で横向きに滑ることを不思議に思う人はほとんどいない。地形で遊び、パウダーにラインを刻み、ときには宙を舞う。その光景は、あまりにも当たり前になった。
 
しかし、その当たり前は、最初から存在したわけではない。かつて雪山には、「横向きに滑る」という発想そのものがなかった。そうしたなか、アメリカでも日本でも、互いを知らない男たちが、同じ未来を描いていた。
 
BURTON(バートン)創業50周年を契機にスタートする連載「BELIEVING IN SIDEWAYS」。第1回は、その創世記10年をたどる物語である。ブランドの歴史を振り返るためではない。1977年から1987年までの10年間、人々は何を信じ、何と格闘し、どうやって「横向きに滑る自由」を手に入れたのか。
 
その物語を知ったとき、あなたが雪山で描く一本のラインもまた、50年受け継がれてきた自由の先にあることに気づくはずだ。

“創世記”とは、同じ問いが生まれた時代

1977年。のちに「スノーボード創世記」と呼ばれる10年は、この年から大きく動き始める。もちろん、その渦中にいた誰ひとり、自分たちが新しいカルチャーの扉を開こうとしているとは思っていなかった。
 
彼らが追い求めていたのは、ただひとつ。「もっと自由に雪山を滑りたい」──そのシンプルな欲求だった。
 
興味深いのは、その衝動がアメリカ各地、そして日本で、まるで申し合わせたかのように同じ時代に芽生えていたことである。ユタ州ではデミトリア・ミロビッチが深いパウダースノーを滑るためのボードを追い求め、西海岸ではトム・シムスがスケートボードやサーフィンで感じていた自由さを雪山に持ち込もうとしていた。日本では田沼進三氏が、サーフィンのフィーリングを雪上で表現できないかと思索を重ねていた。
 
彼らは互いを真似ていたわけではない。目指していた滑りも、背景にあるカルチャーも、それぞれ違っていた。でも、不思議なほど共通していたものがある。
 
「雪の上でも、もっと自由に遊べるはずだ」
 
その確信にも似た衝動だった。
 
そして同じ頃、アメリカ東海岸のバーモント州でも、23歳のジェイク・バートン・カーペンターが、その問いと向き合い始めていた。
 

1977年、オーストリアのキッツシュタインホルンにて。スノーボードという名が存在しなかったこの時代、ジェイクは雪山で試行錯誤を重ねていた

 
きっかけは、スナーファーだった。ロープを握り、雪の斜面を滑るシンプルな遊び道具。当時、多くの人にとって、それは子供から大人まで楽しめる雪遊びの延長にすぎなかった。しかしジェイクの目には、その先にある可能性が映っていたのだ。
 
雪の上でも、自分の意思でラインを描きたい。斜面の起伏を読み、雪質に合わせてターンを変え、ときにはスピードを解放しながら地形そのものと遊ぶ。サーフィンやスケートボードで感じていた自由さは、雪山でも必ず実現できるはず──その発想は、頭の中だけのアイデアでは終わらなかった。
 
だが、理想と現実はほど遠い。専用のブーツも、バインディングも、完成されたボードの形も存在しない。何をどう変えればイメージしている滑りに近づけるのか。その答えは誰も持ち合わせていなかった。
 
それでもジェイクは立ち止まろうとしない。雪山に板を持ち込み、滑る。思い描いたターンができなければ、工房へ戻る。形を変え、素材を試し、再び雪山に向かう。その繰り返しだった。
 
完成形を知る者など誰ひとりいない時代だからこそ、前へ進む方法は、失敗を積み重ねることしかなかった。のちに、100本近いプロトタイプを製作したと語られる、その執念は、ブランドを生み出すためではない。自分が心の底から「これだ」と思える一本で、雪山を滑りたかったから。
 
その純粋な欲求だけが、ジェイクを突き動かし続けた。
 
しかし、理想に近づいたボードを手にしても、それで物語は終わらない。ようやく雪山を自由に滑れる可能性が見え始めた頃、多くのスノーリゾートは彼らを歓迎しなかった。横向きに滑る一枚の板は前例がなく、安全性への懸念から理解を得られないことも少なくなかったからだ。
 
いま振り返れば、その反応も無理はない。当時のスノーボードは、まだ完成されたスポーツではなく、誰もその可能性を証明できていなかったのだから。
 
それでも、彼らは滑ることを諦めなかった。ゲレンデで受け入れられなければ、自分たちで雪山に入る。誰かに認めてもらうためではない。自分たちが信じた一本で、思い描いたラインを滑りたかった。その欲求は、理解されないことや締め出されることへの恐れよりも、はるかに強かったのだ。
 
自分がカッコいいと思う滑りを貫き通す。その感覚は、50年経った今も変わらない。
 
彼らは、ルールに逆らおうとしていたわけではない。雪山を奪おうとしていたわけでもない。ただ、雪山にはまだ誰も知らない遊び方があることを、自分たちの滑りで証明したかったのである。
 
一つひとつのターンは、決して洗練されてはいなかった。一本一本のラインも、現在のように自在ではなかった。それでも、その無数の挑戦が積み重なるたび、「横向きに滑る」という新しい価値観は、少しずつ雪山に根を下ろし始めていた。
 
やがて、そのラインに惹かれる仲間が現れる。遊びは人から人へ伝わり、小さな熱は徐々に広がっていく。誰も、新しいスポーツを発明しようとしていたわけではない。彼らは、それぞれ違う場所で、異なる文化の中から雪山にたどり着いた。不思議なほど同じ未来を見ていたのだ。
 
もっと自由に滑りたい。
 

スノーリゾートでの滑走が許されなかった1981年。カリフォルニア州ライトウッドの地で、ジェイクはボードテストを行っていた

 
その純粋な欲求だけが、世界のあちこちで呼応するように、新しい遊びを生み出していったのである。
 
まだ競技ではない。産業でもない。ましてやオリンピック種目でもない。しかし、その小さな熱は、確実に仲間を増やしていた。
 
いま振り返れば、創世記とは「スノーボードが生まれた時代」を指す言葉ではない。世界中で「同じ問いが生まれた時代」だった。
 
その問いは、次第に雪山の景色そのものを変えていくことになる。


“自由”とは、ひとつではなかった

同じ問いから始まった創世記は、やがてひとつではない未来へ枝分かれしていく。世界のあちこちで芽生えた「もっと自由に雪山を滑りたい」という衝動は、同じ方向へ進んでいったわけではない。むしろ、その逆だった。一本の幹から無数の枝葉が伸びるように、それぞれが思い描く「自由」は違う形をしていたのである。
 
ジェイクが追い求めていたのは、雪山そのものを自由に滑るためのボードだった。あらゆる雪質や地形と向き合い、一枚のボードで雪山を遊び尽くす。そのために道具を磨き続けていた。
 
いっぽう、トムが見つめていたのは、雪山の向こう側に広がるカルチャーだった。サーフィンやスケートボードで培われた自由な発想。音楽やファッションを含めたライフスタイル。雪山もまた、その延長線上にあった。
 
正解など、まだ誰も知らない。それぞれが信じる自由を追い求めた。その違いは、時代が進むにつれ雪山の景色そのものに表れ始める。
 
ある滑り手は、誰よりも速く雪面を駆け抜けようとした。ある滑り手は、自然の地形そのものを遊び場に変えようとした。そしてある滑り手は、「どう滑るか」そのものに、自分らしさを見いだそうとしていた。
 
それまでの雪山は、「前を向いて滑る」のが当たり前。しかし「横を向いて滑る」ことで、前向きでは見えなかった地形や起伏が見えた。だからこそスノーボードは、これまでの常識に収まる遊びではなくなっていくのだ。
 

スラロームのチームライダーだったアンディ・コフランによる、1984年当時としては巨大なメソッドエア

 
速さだけではない。美しさだけでもない。深雪だけでもない。
 
誰かと同じ滑りを目指さなくてもいい。一人ひとりが、自分の楽しみ方を見つければいい。スノーボードというカルチャーは、生まれた瞬間から「ひとつの正解」を求めるものではなかったのである。
 
滑り方が枝分かれしていけば、それを受け止める舞台も必要になる。初期のスノーボードシーンでは、まずレースがその受け皿になった。速さを競い、道具やライディングの完成度を確かめる場に、スノーボーダーたちが一堂に会する。
 
だが、それだけでは収まらない熱があった。サーフィンとスケートボードが深く結びついているように、スケートボーダーたちは雪山に新しい可能性を見いだしていた。雪山の地形をもっと自由に滑りたい。もっと高く飛びたい。速さではなく、自分らしい滑りそのもので魅せたい。
 
その欲求は、競技の形を変えていく。SIMS(シムス)は世界初となるハーフパイプ大会を開催し、それまで雪山には存在しなかった新しい表現の場を切り拓いた。BURTONは、レースを起点にしながらフリースタイルも受け入れ、US OPENを育てていく。
 

1985年、同じウエアを身にまとい、同じボードにまたがってUS OPENに参戦していたBURTONチーム

 
競い合うことと、表現すること。どちらかだけがスノーボードなのではない。異なる価値観を受け止める舞台ができたことで、スノーボードはさらに多くの可能性を手にしていったのだ。
 
それは、BURTONだけが築いた世界ではない。SIMSだけが切り拓いた世界でもない。それぞれが信じる滑りを追い求め、その違いがぶつかり、ときに刺激し合ったからこそ、カルチャーは一方向へ収束することなく根づいていったのである。
 
1980年代半ば。自由という一本の幹から、すでに無数の枝葉が伸び始めていた。そして雪山には、その多様な滑りを受け止める舞台が整いつつあった。


“カルチャー”とは、人から人へ受け継がれるもの

舞台が整い始めると、その熱は雪山の外へ広がり始める。それまで各地に点在していたスノーボーダーたちは、少しずつ互いの存在を知るようになった。
 
1980年代に入ると『ACTION NOW』をはじめとするメディアが誕生し、各地で芽吹いた新しい遊びを記録し始める。写真は、まだ見ぬ滑りを伝えた。映像は、その場の空気まで届けた。ショップにはボードを買うためだけでなく、雪山の情報や仲間との出会いを求めて人が集まり、そこで交わされる会話が、次の滑りを生み出していった。
 
それまで点として存在していたスノーボーダーたちは、次第に線で結ばれていく。誰かが新しいターンを覚えれば、その写真を見た誰かが刺激を受ける。誰かが新しい遊び方を見つければ、その映像を見た誰かが雪山で挑戦する。その繰り返しによって、スノーボードは単なる遊びではなく、人から人へ受け継がれていくカルチャーへと姿を変え始めていた。
 

ジェイクは妻のドナとヨーロッパへ渡り、事業を拡大させていく。この写真が撮影された1986年には、オーストリアや日本での販売が始まった

 
当時、「滑る人」と「作る人」は、まだ別々の存在ではなかった。雪山で感じた違和感を工房へ持ち帰る。工房で生まれたアイデアを雪山で試す。その試行錯誤の積み重ねは、スチールエッジやバインディングの進化へとつながっていく。自らの意思を雪面へ伝えるための道具は、この時代に大きく前進した。
 
その滑りを写真や映像で記録し、メディアが広げ、ショップが人をつないでいく。伝える手段は変わっても、その本質は今も変わらない。誰かの滑りに心を動かされ、それを自分なりに表現し、また次の誰かに伝えていく。
 
カルチャーとは、こうして受け継がれるものなのだ。
 
その中心にあったのは、ブランドだけではない。BURTONというブランドの前に、ジェイクというスノーボーダーがいた。SIMSというブランドの前に、トムというスノーボーダーがいた。彼らは会社を経営するために雪山に立っていたのではない。自分たちが本当に滑りたい環境を、自らの手で形にしようとしていたのである。
 
だから創世記のスノーボードには、まだ明確な境界線が存在しなかった。ブランドとライダー。作る人と滑る人。大会とコミュニティ。そのすべてが重なり合いながら、「もっと自由に滑りたい」という願いを育てていた。
 
誰かひとりの仕事ではない。どこか一社の功績でもない。ジェイクがいた。トムがいた。デミトリアがいた。田沼氏がいた。そして、歴史に名前が残らなかった無数のスノーボーダーたちがいた。
 
彼らは、それぞれ違う場所で新しい時代を信じていた。その熱は、人から人へ伝わり、雪山から街へ、そして次の世代へとつながっていく。
 
1987年。わずか10年で、雪山は大きく変わった。
 
誰も横向きに雪山を滑っていなかった時代から、「もっと自由に滑りたい」と願うスノーボーダーたちが、ボードを進化させ、舞台を築き、仲間を増やし、ひとつのカルチャーを育て上げた。
 
創世記とは、自由を信じたスノーボーダーたちが、世界中で同じ未来を育んだ時代だった。
 
そして、そのバトンは次の10年、ひとりのスノーボーダーによって、新たな時代へ受け継がれていくことになる。

text: Daisuke Nogami(Editor in Chief)

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