COLUMN
ライディング写真とは人間ドラマを写し出したアート
2017.03.31
断言しよう。プロスノーボーダーの滑りを切り取ったフォトグラフは芸術だ。規模やロケーションが想定内であるハーフパイプやパークでのライディング写真は、滑り手の類い希なる卓越したスキルを持っていないと成立しない。または、群を抜くフォトグラファーの感性や機材のクオリティが物を言うだろう。しかし、ふたつと同じ地形やロケーションが存在しないバックカントリーの世界においては、さらに言えば、同じスポットでも降雪量や空模様などによって様々な表情を浮かべるだけに、そこで撮られる作品における可能性は無限大。時間帯、トリック、天候、撮影方法……自然が生み出した奇跡に、ライダーの洗練された技術とフォトグラファーの研ぎすまされた感性が掛け合わせられることで、ひとつの作品がファインダーに収められるわけだ。サーフィンに近いのかもしれない。二度と来ることがない一期一会の波に同調しながらパフォーマンスするライダーを、アートとして残す作業。ただし、ライディングを演出する要素として、水や空、そして雲などに限られるところが決定的な違いだろう。
では、ストリートはどうか。こちらはスケートボードの伝統を継承していることは紛れもない事実だが、足が固定されているスノーボードは、アイテムの選択肢が桁違いに多い。斜度がなくてもスピードを生み出すことができるバンジーコードやウインチの出現により、その選択肢はさらに広がり、トリックの難易度や多様性もさることながら、滑り手の表現力を重視した作品撮りにおいても、圧倒的な芸術性を獲得したのだ。
ゲレンデクルージングやパークライディングを主とする一般スノーボーダーにはピンとこない話かもしれないが、このような文化が築き上げられた背景には、ライダーたちが抱き続けてきた飽くなき探究心の末に求めたフィールドであることが大前提となる。わかりやすく言えば、圧雪されたバーンよりもパウダーを滑るほうが気持ちいい反面難しいように、より面白さや奥深さを求めた結果だ。それは、ストリートも然り。
他の一般スポーツに話題を転じると、何よりも選手のパフォーマンスが重要視される。だからこそ、バックグラウンドを度外視して被写体に迫った写真が残されるわけだ。オリンピックにおけるスノーボード競技をマスメディアが撮影すると、スチール、ムービーを問わず、前述したようにファインダーいっぱいに選手をとらえるため、高さがまったくわからない画になってしまう。
これらを踏まえるとスノーボードのライディング写真は、一般スポーツでは表現することができない、ロケーションを活かした滑り手の表現力にフォトグラファーの感性が加わった、アート性が非常に強いものと言える。一般スポーツに近しい感覚で、パークにおけるトリックの難易度やハウツーを伝えるのであれば、ムービーやシークエンスのほうが適しているだろう。だが、大自然を舞台とした広大な雪山で繰り広げられるスノーボードにおいて、さらに、滑り手にとってもっとも重要である“スタイル”を表現するための手段としては、写真を残すという作業が究極なのだ。
スノーボードにおける一連の動きを切り取った写真は、まさに人間ドラマそのもの。秘境であるバックカントリーにおいて、ライダーとフォトグラファーたちは究極の舞台を求め、ヘリやモービル、自らの足を駆使してさまよい続ける。最高のパフォーマンスを表現するため、それを極上のアートとして残すため、命を懸けて滑走し、その重圧に負けじとシャッターを切る。人目をはばかるように鉄製の手摺りやコンクリートの壁を相手に、肉を切らせて骨を断つ覚悟で臨むストリートにおいても、その想いはバックカントリーでのそれと変わらない。ビッグコンテストとは違い、そこに大観衆などいるはずもないのに。
しかし、コンテストで得られる賞金や賞賛よりも価値があるからこそ、プロスノーボーダーはその地を目指す。そして、フォトグラファーも彼らと一心同体で行動する。その一瞬を切り取った写真たちには、コンテストやパークムービーからは決して感じることができない、力強さや美しさ、そして感動すら覚えるのだから。
rider: Mark Landvik photo: Scott Serfas/Red Bull Content Pool
※弊誌編集長・野上大介がRedBull.comで執筆しているコラム「SNOWBOARDING IS MY LIFE Vol.24」(2015年4月16日公開)を加筆修正した内容です