BACKSIDE (バックサイド)

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COLUMN

スノーボードとスケートボードとの融合

2016.10.12

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HISTORY OF SNOWBOARDING Vol.7 〜スノーボードをより深く知るための10の物語〜

本コラムではスノーボードの歴史について掘り下げてお伝えしているわけだが、ようやく筆者自身が体感した時代であり、このカルチャーが世界的に周知されることになった90年代初頭へと突入する。
 
雑誌「Fine」の小さな記事を見てその存在を知り、1992年の冬にスノーボードを始めた。当時の日本ではスケートボードがファッションも含め流行していたため、その延長線上としては自然の流れだった。大学生だったためバイト代をつぎ込み、ウエアのジャケットを除いて一式買いそろえた。なぜジャケットを買わなかったのかといえば、その必要性を感じなかったから。スキー経験があったわけではないので、ゲレンデがどれくらい寒いのかを知らなかったこともそうだが、スケートボードの雪上版だと思い込んでいたことが大きい。インターネットが普及していなかった時代に、ただでさえ少ないスノーボードの情報をたぐり寄せたかぎりでは、端からストリートの遊びとして捉えていた。
 
これまでも執拗に綴ってきたように、サーフィンとスケートボードからの影響を多分に受けて形作られてきたスノーボード。90年代に入ると、当コラムVol.4で紹介したフリースタイルのゴッドファーザーであるテリー・キッドウェルのホーム・カリフォルニア州タホや、前々回前回のコラムに登場したクレイグ・ケリーのホーム・ワシントン州マウントベイカーを含むシアトルを中心とした西海岸のスケーターたちが、挙って雪山へと足を運ぶようになった。ストリートでのファッションやスタイルが雪上に持ち込まれたことで、スケートライクなスタイルが浸透していくことに。こういった背景から、ネルシャツやスイングトップなどのストリートファッション(もちろん防水性はゼロ)で雪上に立つことに何ら抵抗はなかった。
 
こうした時代を築き上げたライダーの代表格として挙げられるのが、ノア・サラスネックだ。カリフォルニア州生まれの彼は、6歳の頃からスケートボードを始め、スポンサーのH-STREETからは自身のモデルをリリースするほどの腕前。15歳の頃には全米でその名が知られるまでに成長していた。その後、前出のテリーの映像に感化され、18歳でスノーボードのキャリアをスタートさせる。
 
そして1990年、後にスノーボード・フィルムプロダクションとして世界トップの座に登り詰めることになるMACK DAWG PRODUCTIONS(以下MDP)と、『ROADKILL』や『R.P.M.』といった名作を数年後に生み出すFALL LINE FILMSという2大プロダクションが共同制作した『NEW KIDS ON THE TWOCK』において、そのスケートライクなスノーボーディングがベールを脱ぐことになる。MDPの創始者であるマイク・マッケンタイア氏はノアのスケートでのライディングを撮影しており、ノアがスノーボードの撮影を依頼したことで初めて雪上でカメラを構え、この作品が生まれた。そう、後の世界最高峰ビデオプロダクションは、ここに誕生したわけだ。
 
スケーターとしてのライディングスタイルと、スケートボードの視点から撮られた作品は、スノーボード界に新たなる可能性を示すことになる。ゲレンデ内のログに当て込み、降雪機をオーリーで飛び越え、前足をボーンアウト(伸ばすこと。現在ではポークと呼ぶのが一般的)する姿は、これから始まろうとしているニュースクール・ムーブメントの礎となった。
 
この映像を観て触発された若きスノーボーダー(後のレジェンド)たちが、この直後に巻き起こるニュースクール・ムーブメントの原動力となるわけだ。
 
つづく
 
※弊誌編集長・野上大介がRedBull.comで執筆しているコラム「SNOWBOARDING IS MY LIFE Vol.8」(2014年12月2日公開)を加筆修正した内容です

rider: Noah Salasnek photo: Aaron Sedwawy

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