BACKSIDE (バックサイド)

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FEATURE

【創刊8周年特別企画】弊誌バックナンバー800円引きキャンペーン第3弾「STYLE IS EVERYTHING ──スタイルこそすべて──」

2024.08.21

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2016年8月18日に産声をあげた弊誌「BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE」は、後世に伝えるべき価値あるコンテンツを見極めて紙として残すべく、これまで11冊の書籍を刊行してまいりました。ウェブマガジンは8年間、一日も欠かすことなく毎日更新。熱心なスノーボーダーたちとコミュニケーションを図りながら、創刊8周年を迎えることができました。これもひとえに、読者のみなさまのおかげです。日頃よりご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。

そこで、創刊8周年を記念して、弊誌バックナンバーすべて800円引きのキャンペーンを行います(ISSUE 2、5は完売のため除く)。タイムレスなテーマを題材に編んだ弊誌を読むことで、日本だけでなく欧米のスノーボード文化に対する理解を深め、美しい写真たちを眺めながら紙媒体ならではの手触り感を得る。きたる24-25シーズンに向けて、モチベーションを高めていただけたら幸いです。
 

INTRODUCTION
はじめに

 

photo: Claudio Casanova

 
自らを表現するために滑り続けるスノーボーダーという生き方。
“遊び”であり“競技”でもあるスノーボードという表現方法。
それらを語るうえで欠かせない“スタイル”という価値観がある。
そのうえでライダーたちが表現する舞台に目を向けてみたい。
バックカントリーやストリートでの滑りが進化すればするほど、
そのロケーションは現実離れしてしまい理解しづらくなる。
競技レベルが高まってトリックが高難度化していくほど、
勝つためにはそうした技が求められ個性を打ち出しづらくなる。
このような状況下でスタイルについて議論が交わされるわけだ。
だからこの言葉は曖昧でわかりづらいのだが、
大きく“型”と“流儀”に分けることができるだろう。
一年中滑走可能な環境を手にしたことで型は作りやすくなった。
しかし、前述したように複雑難解な技からは個性が失われていく。
反面、ライディングスタイルは“滲み出るもの”という説がある。
スノーボーダーという生き方の流儀が滑りに投影されるという考えだ。
そこで滑りでの表現力に長ける彼らの言葉や思考から、
三者三様のスタイルについて掘り下げることにした。
表現者として己を貫き通す布施忠のスタイル。
仲間とともに勝負の世界に生きた佐藤秀平のスタイル。
競技から学んだ自由を求めて戦う山根俊樹のスタイル。
楽しさを伝えるため、勝負に勝つため、自由を勝ち取るため。
目的は何にせよ、見た目以上に中身がカッコよくなければ意味がない。
Style is everything──スタイルこそすべて。スタイルとは己自身なのだ。
競技性が際立つオリンピックシーズンだからこそ、このテーマを捧ぐ。
 
BACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINE 編集長 野上大介
 

布施 忠
表現者として貫き通す己のスタイル

 

photo: Akira Onozuka

 
世界最高峰のムービープロダクションで日本人初のビデオパートを獲得し、世界でもっとも権威あるブランドから日本人で初めてシグネチャーボードをリリースするなど、グローバルのトップレベルでアジア人スノーボーダーが通用するということを証明した男。それが布施忠である。その後は國母和宏(1988年生まれ)や平野歩夢(1998年生まれ)といった“10年にひとり”の逸材たちが誕生し、世界という大舞台で活躍しているわけだが、忠が先頭を切って歩んできた道のりは決して平坦なものではなかった。だからこそ、彼は誰よりも努力した。茨の道を掻き分けながら休む間もなく邁進し続け、冒頭で述べた前人未到の快挙を成し遂げてきたわけだ。その領域にまで上り詰めた原動力とは、いったい何だったのか。己のスタイルを貫き通しながら自己表現を続ける、忠の胸中に迫る。
 

EPISODE 1
命と引き換えに教えられた生きる道

 
 奇しくもスノーボードがオリンピック種目として採用された1998年、忠は競技生活に別れを告げ、ライディング撮影を通じた自己表現の面白さに目覚めることになる。スノーボードを始めて5年、プロスノーボーダーとして歩み始めてから3年目のことだった。
 
 たった2年でプロ昇格を果たし、さぞや順風満帆なデビューを飾っていたのかと思いきや、実のところ、この時代がプロスノーボーダーとして最大の難所だったのだ。彼を語るうえで外すことのできない、大きなターニングポイントがここにある。
 
 「16歳のときに地元の山形蔵王で始めたんですけど、当時はどうしたらプロになれるのかすらわかってませんでした。そんなときに蔵王で(カナダ)ウィスラーに行ったことがある人に出会って、(小松)吾郎ちゃんや(高橋)信吾くんの話をしてくれたんです。しかも、その人がキッカケで彼らと滑れるようになったんですよ。それはものすごい体験でしたね」
 
 小松吾郎と高橋信吾。90年代初頭、日本のフリースタイルスノーボーディング黎明期を支えた重要人物である。そもそも、プロになることが目標ではなくただの通過点と端から考えていただけに、その意識の高さに素晴らしい巡り合わせが重なったことで、瞬く間に上達していく。18歳でプロ資格を獲得。ここが忠にとってスタート地点になるはずだった。
 
 しかし、彼は悩んだ。このままプロスノーボーダーという華やかな世界で生きていくのか。それとも社会人として地道に働くのか。さらに追い打ちをかけるように、センスあふれる滑りにフィジカルが追いついていなかったのだろうか。腰痛に苦しめられた。
 
 「ここがオレのスノーボード人生で一番大きな壁でした。19か20歳くらいの頃、本当に腰が痛すぎて自暴自棄になってた時期があって。今思えばただ怠けてただけだと思うんですけど、若かったからトレーニングとかケアをすることもなかった。スノーボードをやめることまで考えてたんですけど、そんなときに後輩のお父さんから相談を受けたんです。“うちの息子もスノーボードをやるんだけど、今病気で入院してるんだ。忠くんが来てくれたら励みになると思うんだけど、何かしてあげられないかな?”って。そいつはヒデキっていうんですけど、後輩とはいってもそれまでちゃんと話したことはありませんでした。でも、お見舞いに行くことにしたんです。そしたらヒデキ、白血病で……。抗がん剤の影響で髪の毛はないし、本当に辛そうでした。これ、なんとかなんないのか?って本気で考えたけど、オレはお見舞いに行くことしかできなかった。でも、最初に会ったときは余命1ヶ月って聞いてたのに、そこから1ヶ月延びて、さらに延びていって。あいつ、あのときめちゃくちゃ頑張ってた。そうやって何度も足を運んでるうちに、どんどんヒデキの強さを感じるようになっていったんです。そのときに、“なんでコイツはこんなに頑張ってるのに、オレは腰が痛いとか弱気なことを言ってんだ!”って心の底から痛感させられて。逆に励まされちゃったんですよ。くすぶっていたオレの気持ちに火をつけてくれました。プロスノーボーダーとして生きていくか、それともやめるかでめちゃくちゃ悩んでる時期だったから、頑張ってるヒデキの姿を見て、“オレはこんなんじゃダメだ!”って思い知らされたんです。もっと真剣に、もっと頑張らないといけない。言い訳なんてしてちゃダメだって。だから、タバコをすぐにやめて筋トレしまくって、本気でプロの道を歩んでいく決意をしました」
 
 ここで入れたスイッチは、プロ生活20周年を終えて新たなるスタートを切った現在に至るまで、一度たりともオフにしたことがない。プロとして本格的に歩み始める前に、こうした苦悩と本気で向き合ったからこそである。後述するが、だからこそ決死の覚悟で挑み、日本人スノーボーダーとして前人未到の快挙を幾度となく成し遂げてきたのだろう。
 
 大人の階段を上り始めるとともに、プロとしてヒデキに与えることができた夢や希望に気づかされた忠。プロスノーボーダーとしてどのような道を歩んでいくのか。当時、JSBA(日本スノーボード協会)のプロサーキット(ハーフパイプ種目)を転戦することが日本では主流とされていたのだが、彼自身はアメリカ西海岸のスケーターたちが雪上に飛び出したことで派生した、スケートボードのアクションやファッションがスノーボードに投影されたニュースクールの影響を強く受けてスノーボードを始めていた。
 
 「(スノーボードを始めた)キッカケは地元の友達と一緒にスケートボードをやってて、そこに前スケートボードをやってたっていう人が現れて。こんな田舎でスケートボードやってるヤツいるんだみたいな感じで(いたらこっちに)来て、“オレ、スノーボードをやってるんだ”みたいなことを言ってて。なんだ、スノーボード?みたいな感じで。そこで、“スノーボードのビデオあるから家に来るか?”って言ってきて。ホント近かったんですよね、スケートボードやってたところと。すぐに行ってビデオ観させてもらって。最初はスケートボードのプロになりたかったんだけど、それ観た瞬間に“オレ、これのプロになる!”って。スノーボードのプロになるって。そっからですかね」
 
 これは2016年11月に公開された、忠のプロ生活20周年を記念して制作されたムービーの冒頭で語られている彼の言葉である。忠の目に飛び込んできた世界は、スケートボード以上に自由なものに映ったのだろう。
 
 「当時観ていたビデオが『ROADKILL』(FALL LINE FILMS/1993年)とかだったから、コンテストのシーンはほとんどないじゃないですか。プロを目指す過程においてハーフパイプの大会に出る必要があることを知ったけど、それまでは自然地形を利用してジャンプするのが好きでした。プロになってからはJSBAのプロサーキットにも少しは出てたんですけど、なんか性に合わなくて……。それで、アメリカに行くようになったんですよね。アキくん(平岡暁史)がユタに留学してたからブライトンとかあっちの山を知ってたんで、そこで撮影しようってことになって。アキくんがムービーを作ってたんですよ」
 
 1998年にリリースされた、平岡暁史プロデュースによるNUT’S FILM『PASSOR』。往年のスノーボーダーであれば、これから記すライダーたちの名を耳にしたことがあるはずだ。平岡を筆頭に、西田崇、鎌田潤、福山正和、太田宜孝、岡義明らが名を連ね、そのトリを飾ったのが忠である。3分あまりに渡る彼のビデオパートは、当時の日本人トップクラスのライダーたちよりも頭ひとつ……いや、ふたつ以上抜きん出ているように感じられる内容だった。
 
 雪面が荒れているにも関わらず、うねるようなアプローチラインを超高速で駆け抜け、ナチュラルのクォーターパイプで特大のマックツイストやメソッドをスタイリッシュに繰り出す。ストレートジャンプでキャブ720を、クォーターパイプでスイッチ・バックサイド720を操るなど、当時としては高難度なスピントリックを高さを叩き出したうえで決めていた。とにかく、ストレートエアだろうがトランジションだろうが垣根なく上手さが際立つ滑り。さらには、ハーフパイプやストリートレールのシーンも収録されており、オールラウンドで次元の異なる滑りを披露していたのだ。
 
 「この『PASSOR』あたりから、ビデオに滑りの記録を残したい。そして写真にも残したい。こうした想いが強くなっていきましたね」
 
 プロとして生きていくことが確固たるものとなり、その道筋がおぼろげながら見えてきたこのタイミングで、彼の歩みをさらに加速させる出会いが待ち受けていた。
 
 「WHSKEY(BOOZY THE CLOWN作)のムービーを観てたら、デバン(ウォルシュ)がデカい山を滑ってる映像が出てきたんです。“コイツらこんなところでやってるんだ”って衝撃を受けました。日本で滑ってたら彼らとの差は開いていく一方だと感じて、向こうでやろうと決意したんです。そんなときにマルさん(フォトグラファーの丸山大介氏。後に米TRANSWORLD SNOWBOARDING誌のシニアフォトグラファー)と出会ったんですよ。マルさんがそのときに“カナダでやろうよ”ってオレを誘ってくれました。タイミングがめっちゃよかったですね。当時、マルさんもオレも同じように熱い気持ちを抱いていて」
 
 海外のムービースターたちは、忠にとって憧れの存在ではなく、このときすでにライバルだった。
 
 「マルさんとは考えてることが似てたんですかね。日本にいたとき、自分がやってることにモヤモヤしてる感じが似てるような気がしてました。その頃はスノーボードがすごい流行ってて、あの年代のプロたちはみんな日本でダラダラやってるような感じでした。それがとにかく嫌いで。あと、日本のシーンは大会に対する意識が強かった。でも、オレは大会に出たくてプロになったわけじゃなかったし、映像や写真を残すっていう道が見えてきてたから、マルさんとカナダで勝負することに決めたんです」
 
 先述した20周年記念ムービー内で語られている丸山氏の言葉を借りれば、“ウィスラーは冬のハリウッド”。こうして忠は、手探りながらもムービースターへの道を歩み始めた。

つづく

EPISODE 2 世界を認めさせた自己表現力
EPISODE 3 新たなるステージへ
EPISODE 4 スタイルを変えることなく絶対にあきらめない
 
佐藤秀平 仲間とともに勝負の世界に生きた男のスタイル
EPISODE 1 遊びながら競い合った少年時代
EPISODE 2 オリンピックという大舞台を目指す決意
EPISODE 3 プロ活動と引き換えに手に入れた滑走力
EPISODE 4 オリンピックはスノーボードの一部
 
山根俊樹 競技から学んだ自由を求めて戦うスタイル
EPISODE 1 鮮烈すぎる中学デビュー
EPISODE 2 華やかな舞台よりもリアルな現場を求めて
EPISODE 3 自由のために戦う生き方
EPISODE 4 自由だからこそ全力で滑る意義
 
 
ISSUE 4 STYLE IS EVERYTHING ──スタイルこそすべて── 2017年11月18日発売 / A4サイズ / フルカラー / 日本語・英語 / 152ページ / 定価1,500円→特別価格700円
 

cover photo: Taro Koeji

 

※編集部が出張中のため、2024年8月26日(月)以降に順次発送いたします

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